投稿

ラベル(子育ての徒然)が付いた投稿を表示しています

外出できない子どもたちは、YouTubeで世界に接続する

イメージ
新型コロナウィルスの感染被害がオーストリアでも拡大している。  私の職場も、子どもの学校も、実質的な閉鎖となった。  ウィーンでは(私の知る限りは)過度の買い占めや暴動などは起きていなくて、そこに私は古都に住む良さを見出してしま う が、楽観的なままで過ごせるわけにもいかないようだ。  クルツ首相は、ORF(オーストリアの公共放送局)のインタビューにて 「我々は第二次世界大戦以来の困難に直面している」 と発言した。  そしてオーストリア政府は、3月16日(月)からーーつまり本稿を書いている5時間後にーー以下の対策を実行するという。 5名以上の集まりの禁止。ただしコロナ対策の活動は例外。 公的スペースでの自由制限。公園や運動施設等は閉鎖。 外出の禁止。例外は、①必須の職務、② 生活必需品の 買物、③他人の救助。 街中で警察官が巡回。違反者には最大3,600ユーロの罰金。 3月17日以降は飲食店も閉鎖。生活必需品はスーパーマーケット等で保証。  そういうわけで、これから2-3週間(悪くするとさらに長期間)は、自宅で仕事と子どもが同居して、リモート会議中に子どもが闖入し、うんこの臭いを嗅ぎながら資料をつくる、混沌の新フェーズがやってくる。こうしたことを平時からこなされている有志の向きに対しては、もはや全方位的な敬意を表明するほかない。  ウィーンと私と、旅のできない子どもたち。 6歳児はいま路線図づくりにハマっている。これはウィーン市内の地下鉄の路線図 駅名を書き込み過ぎて、なにか異様なテンションが宿っている  託児所やナニーさんに頼るのが難しそうな現状において、有効な打ち手をインターネットに求めるのは自然な展開であるだろう。  子どもと YouTube の関係は、もう拙ブログで触れたテーマだ。息子は若干3歳にして、完璧な間合いで「広告をスキップ」をタッチする。さらに最近は Netflix に再入会して、ウィーンで視聴可能なスタジオジブリ作品などをたのしむ黄金の日々である。 (参考記事:  YouTubeはバイリンガルを育てるか? 、  NHKの支局長に新事業を提案した )  そんなわけで、もはや取り上げる必要もないとは思っていたが、自宅待機を迫られた子どもたちが多いであろう状況を鑑みて、わが息

可愛い子どもと旅をしよう

イメージ
「パパ、ロンドンってアジアなの?」 と、6歳児が言った。  なかなか独自性のある質問だ。  ちがうよ、ロンドンはヨーロッパだよ、と答えたあと、逆に私は訊いてみた。 「どうしてアジアだと思ったの?」 「だって、日本と同じで、ここは車が左側通行だから」 「パパ、イランって、アメリカと喧嘩しているの?」 と、6歳児が言った。  なかなか直球の質問だ。 「うーん、そうだね。仲は良くないね。というか、かなり悪いね」 「トルコとイランも仲が悪いの?」と息子が尋ねる。彼にはトルコ人の級友がいるのだ。 「あんまり良くはないかな」と私は言う。トルコ製のビールがイランに密輸入されていたり、ほかにも水面下で利害が一致している話をしようと思ったが、やっぱりやめた。私にも少しは分別がある。 「それじゃあ、アメリカとトルコは仲がいいんだ」 と息子がひとりでに納得した。「だって、同じ人と喧嘩している同士は、自然と仲良しになるからね」  私はうなった。それは外交の本質であるように思われたからだ。   行き先を決めずに電車に乗る旅 をして、よくわからない駅で下車をする。Googleで調べてもウィキペディア・ドイツ語版くらいしかヒットしない、よくわからない町を散歩する。  その日は(2kmほど離れた)次の駅まで歩くことにした。最短距離の3倍弱の寄り道をして、もうすぐ日が暮れようとする頃合いになって、ようやくゴールが見えてきた。 「さて、どっちがウィーン行きのホームかな」とつぶやいた私に、6歳の息子は迷いなく片方を指さした。 「パパ、行きは右側の線路で降りたから、帰りはきっと左側だよ」 羞恥の念 私はいま、恥ずかしい気持ちになっている。ここまで息子自慢みたいなことを書き連ねていることに気がついて、とても恥ずかしい気持ちになっている。  我が子を誇るのは本題にあらず。というより、むしろ息子は年齢相応の(あるいは性別相応の)不注意をたくさんしでかす。  彼の名誉のためにここには書かないが、パンツの上にべつのパンツを履いたまま通学したり(帰宅まで気づかない)、ジャケットの上にべつのジャケットを着たまま通学したり、ミトンを買った2日後に電車に置き忘れたりする。愛すべき平凡な男の子である。  私

うんこと私のデッド・ヒート

イメージ
ウィーンで過ごす休みのとき、晴れた日には公園に行き、雨の日には家で過ごすことが多い。そこでは「お金がかからない」という判断基準が重視される。  家のなかでは、他愛のない遊びをよくしている。  具体的には、 かくれんぼ をしたり(3歳の息子は「頭を隠して尻を隠さず」スタイルだ)、トランプで ババ抜き をしたり(3歳の息子はジョーカーを引くと返品してくるスタイルだ)、 ボコノン教の挨拶ごっこ (ふたりで向かい合ってお互いの足の裏をくっつける遊び。元ネタは カート・ヴォネガットの「猫のゆりかご」 )をしたり、 どうぶつしょうぎ をしたりする。 6歳の息子はどうぶつしょうぎを自作した(素材:引っ越し用の段ボール)   愛の確認ごっこ をすることもある。  これは、3歳の息子に、いくつかの質問をする遊びだ。  「ママのこと、好き?」と、私が訊く。  「だいすき」と、子どもが笑う。  「お兄ちゃんは、好き?」  「すき」と言う。よくいじめられるけど、それでも好きらしい。  「キッチンペーパーは、好き?」  「すき」  彼の世界は、好きなもので溢れているのだ。  そこで私は質問をする。「パパのこと・・・好き?」  すると、 「すきじゃない」 という答えが返ってくる。  息子にとっての愛の序列は、 ママ >>> キッチンペーパー > パパ  なのであった。  「そんなことばっかり訊いてるから嫌われちゃうのよ」と奥さんが言う。「まずは自分から『好きだよ』って伝えるべきでしょう」  けだし正論である。  たしかに私は、愛を確認する行為にいそしんでいる。ほとんど毎日といってもいいほどだ。モテない奴ほど「自分を好きか」としつこく詰める。そうすればするほど、可能性のつぼみが閉ざされてゆく。その法則なら私も知っている。  けれども、「わかっちゃいるけどやめられない」のが人間というものである。そしてまた、10回に2回くらいの確率で 「パパ、すき」 と言ってくれるのだ。私の観察によれば、どうやら寝起きのタイミングにパパの好感度は最低となり、おやつを買ったり公園で遊んだりしたときに「すき」が得られやすくなるようだ。幼児とは即物的な生き物なのである。  息子はパパ以外のものをすべて「すき」と答えるが(

NHKの支局長に新事業を提案した

イメージ
前回の記事で、「YouTubeで日本語の子ども向けコンテンツがもっとあればいいのに」という趣旨のことを少し書いた。(⇒ YouTubeはバイリンガルを育てるか? )  もちろん、YouTubeだけが動画を見る手段というわけではまったくない。  我が家には、 「デザインあ」 、 「ピタゴラスイッチ」 、 「いないいないばあっ!」 といったDVDがすでにある。 ミッフィーちゃんの人形アニメ も、ロシア映画史に輝く傑作 「ミトン」 も抜かりなく持ってきた。追って 「となりのトトロ」 を日本から取り寄せたりもした。 「あ」を愛する5歳の息子による、線路の二次創作。見どころは左下の再生ボタン  しかし、形あるものというのは常に有限である。子どもたちの映像記憶が海馬から大脳皮質へと完全に刷り込まれるほどに鑑賞を重ねると、どうしても手持ちの切り札に不足が生じる。  そこでウィーンに住みはじめた頃は、海外在住者向けの日本語放送 JSTV を重宝していた。  でも幼児向け番組は放送時間が限られている(しかも相撲中継などでよく中止になった)。番組表に生活を合わせなければならない旧来型のスタイルも、YouTubeに慣れた身にはもはや耐えがたい。そういうわけで、申し訳ないけど1年足らずで解約してしまった。月額50ユーロの価値を見出せなかったのだ。 Netflixに加入する JSTVの退会後は、 Netflix に加入することにした。  子ども向けというよりも、正直に言って自分のためだ。iPadにダウンロードしてオフラインでも視聴できるし、 「ハウス・オブ・カード」 とか 「ブレイキング・バッド」 (※)といった地上波では放送の難しい作品も揃っている。すばらしい、という言葉しか出てこない。 ※ ブレイキング・バッド は、さえない高校の化学教師が、その知識を活かして 覚せい剤 のディーラーに転職して活躍する話。ウィーンで薬物政策に携わる国連職員も「非常に参考になる」と高く評価していた。  これで万事解決と思われたが、私にとってはクリティカルな欠点がひとつあった。Netflixは地域によって視聴可能コンテンツが異なるので、オーストリア版だと日本語の作品がほとんどないということだ。   「帰ってきたヒトラー」 を見ようとしたら字幕も音

YouTubeはバイリンガルを育てるか?

イメージ
2019年の現在、我が子にとってテレビとはYouTubeのことである。   半年前に 在ウィーン国際機関日本政府代表部 のSさんからスマートテレビを頂戴して以来、 完全にそういうことになっている。  5歳と2歳の息子たちが何を好んで視聴しているかといえば、   BabyBus (中国)だったり、   Tayo the Little Bus (韓国)だったり、   Chuggington (英国)だったりする。  特に強制したわけでもないのに、いつのまにか英語の番組ばかりを見ている。これは息子が勤勉というわけではなく、単純に英語のコンテンツが充実しているからだ。  英語圏であれば、視聴者の母集団も相応に大きい。YouTubeの広告収入でがっちり稼いで、それを今後の制作費用に充てていく。そうした循環がすでに確立されている感がある。  私としては、著作権法に抵触しない範囲でもっと日本語のコンテンツに親しんでほしいが、市販のビニール人形を動かして 「ア~ンパンマンがァ~、バ~イキンマンをォ~、やっつけたア~」 などと奇妙な抑揚で話す同人誌的YouTuberが跋扈しているのが現状だ(子どもはそれを大喜びで見るのだが)。  もっとも上述のBabyBusは、英語と中国語だけでなく、日本語版も用意されている。英語の同じ動画と見比べることで、子どもたちの頭のなかに「日⇔英」の対照が自然にできあがる。中国のコンテンツ産業の恩恵に、我々は大いにあずかっているのだ。 テレビを見すぎるとどうなるか とはいえ、テレビを見せるばかりでよいのか、という後ろめたい気持ちも若干はある。  テレビを見すぎると、幼児の言語習得にどんな影響があるのか 。これは学術分野でも長らく耳目を集めるテーマのようで、ちょっと探しただけでも、 ・ Nichols, Deborah & Walker, D. (2005). Infants' and Toddlers' Television Viewing and Language Outcomes . American Behavioral Scientist. 48. 10.1177/0002764204271505.  ・ Christakis, Dimitri.

ウィーンにいても、クラシック音楽ばかり聴くわけではない

イメージ
ウィーンはよく「音楽の都」と称される。しかしその「音楽」とは、多くの場合、クラシック音楽のことである。ある種の暗黙の前提として。   たとえば、 Radiohead とか、 Zedd とか、 Squarepusher とか、 Gorillaz とか、 Kettel とか、そういうのはあまりウィーンに似合う音楽とは言えないだろう。  けれども私は、そうした音楽をわりに好んで聴いている。これはあくまで私の個人的な感覚だが、古風なウィーンの街並みに、クラシック音楽はあまりにマッチしすぎる。それが私には少しばかり気恥ずかしいのだ。  最近は、Amazon Prime MusicやiTunesなどで、妙に日本のアーティストばかり選んでいる。 大橋トリオ とか、 Kaito(a.k.a. Hiroshi Watanabe) とか、 jizue とか、 Suchmos とか、 ゲスの極み乙女。 とか、 米津玄師 とか、 tofubeats とか、 宮内優里 とか、 fox capture plan とか。  こうして並べてみると、本当に日本人ばかりだ。ウィーンで邦楽が流れることは滅多にないので、こういうところで帳尻を合わせているのかもしれない。(ヴォティーフ教会そばのレストラン「 Das Kolin 」で Uyama Hiroto の「 freedom of the son 」をまるごとかけていて、それはもう喜びに震えたものだが、ここ1年ではほぼそれだけだ)  これまでジャンルを問わずいろいろな音楽を聴いてきた。でも直近15年くらいを見渡して、ほとんど変わらぬ熱量をもって聴き続けてきたのは、 ZAZEN BOYS と Small Circle of Friends の2組だけだ。新譜が出れば、必ず買う。かける曲に迷ったら、とりあえずビール、みたいな感覚で、とりあえず聴く。私にとって彼らはそのような存在だ。  ZAZEN BOYS の化け物じみた演奏力、孤峰のような楽曲のオリジナリティは、いつなんどきに聴いても私の魂にキックする。荒ぶるリリックも、年を経て印象は変われど色あせない。なかなか新作が出ないのが困りものだが、 向井秀徳アコースティック&エレクトリック の名義でもいいからアルバムを出してほしい。頼むから。できることならなんでもするから。  Sma

息子が英語を話しはじめた

イメージ
私が最も尊敬する同僚は、イラン人のMさんだ。  Mさんは、イランの大学を出てから、英国で博士号を取って、国際機関に入った。そこから実績を重ね、最終的にはDirector(日本の中央省庁でいえば審議官/部長クラス)に出世した。定年後はコンサルタントとして再雇用され、私の所属する部署に身を置いている。  これまで仕事で訪れた国は、ソ連とか、DDR(東ドイツ)とか、ユーゴスラビアとか、いまでは絶対に行けない国も含めて、実に119ヵ国という。大変な国際人なのである。  そんなMさんの持ち味は、人生の酸いも甘いも噛みわけた、注意深く濾された茶葉のようなユーモアセンスだ。  ある日、ギリシャ料理店でMさんは言った。  「ギリシャ・コーヒーを飲むとき、最も注意すべき点を知っているか?」  「なんでしょう」  「トルコ・コーヒーと言わないことだ。もし言えば、きみは店から追い出される」  「なるほど。でもトルコとギリシャのコーヒーは、そりゃあ違いますよね」  「いや、同じなんだけどね」  Mさんの話はつづく。  「ウィーンのカフェ文化は世界中で有名だ。でもそのコーヒーはどこから持ち込まれたか? オスマン帝国、つまりトルコだ。そしてトルコの文化はアラブに影響を受けた。アラブは誰に教わった? そう、ペルシャ(イラン)だよ。すべての道は、イランに通じるんだ」  「ははは」  「宗教も、戦争も、なにもかもね。世界を織りなす善と悪は、ぜんぶイランから来たんだ」 7種類の言語 そんなMさんはベネズエラ人と結婚して、子どもにも恵まれた。  Mさんは、 「子どもは同時に7種類の言語を学習できる」 と信じている。マジックナンバー・セブンという言葉は聞いたことがあるけれど(人間の短期記憶は7つまでが限界という説)、そこからまたずいぶん踏み込んだ考えである。    「 子どもの話し相手は、どんな場合でも同じ言語を使うようにすべき 」とも彼は主張する。そうすれば子どもの脳に吸収されやすくなるというのだ。  これはどういうことか。たとえば、家庭内でMさんは、いつもペルシャ語で子どもに話しかけるようにしているという。そしてMさんの奥さんは、スペイン語だけを話すようにする。  シッターさんはドイツ語で、家に来るお客さんは英語・・・といった具合に、言

折りたたみ式ベビーカーは機内に持ち込める

イメージ
以前、 「子連れ旅行のライフハック」 で、折りたたんで飛行機の中に持ち込めるベビーカーを誰か発明してくれないか、といった意味のことを書いた。  そうしたら、それが実際にあったのだ。  2か月前、ウィーンの子供用品店でこれを見つけた。168ユーロ。安くはないが、折りたたみ自転車に比べれば高くもない(註:私は Dahon の愛好家だ)。つい、衝動買いしてしまった。   「 Pockit 」というのが、そのベビーカーの商品名だ。日本語話者の耳には「ポキッと」折れて壊れてしまうような、やや不吉な語感がある。だが幸運にも、そのような展開には至らず、日々のハードな使用によく耐えてくれている。 4台目のベビーカー はじめてベビーカーを入手したのは、 バークレー に住んでいた5年前のことだ。イスラエル人の知己から、イスラエル製のベビーカーを無料でもらった。  それからかなり酷使してきたので(子どもが0歳の頃からよく遠方に出かけていたので)、壊れては買い替え、また壊れては新しきを求め、今回の「ポキッと」もとい「POCKIT」で、実に4台目ということになる。  アメリカでは、あぜ道でも砂利道でも平気で走るような、いかにも頑丈なベビーカーが保守本流で、我が家もそれに影響されて「タフネス第一」のポリシーが長く続いた。この世界観においては、車輪は大きければ大きいほど良いのであった。フレームは太ければ太いほど良いのであった。  それに比べてオーストリアでは(あるいはヨーロッパでは)、より日本人好みというのか、小柄で洗練されたデザインをよく見かける。今回購入したPOCKITはその極北というべきもので、なにしろ折りたたんで飛行機のキャビンに持ち込める。それがこの商品の惹句なのだ。 スーツケース(機内持ち込み可能なサイズ)との比較 私の草履との比較 実際に機内に持ち込んでみる このベビーカーがあれば、ロスバゲ(荷物紛失)の不安とはおさらばだ。バゲージクレームで巨大な回転ずしみたいなベルトコンベアーを凝視する、あの不毛な時間にもさよならだ。  もはや、ベビーカーを折りたたむために、飛行機に乗りたい。  手段と目的が交錯した私の願望。それの叶う日がついにきた。ウィーン~マルタのフライトに乗ったのだ。実はこ

ウィーンの児童公園には井戸がある

イメージ
ウィーンの良いところはたくさんあるが、もし3つだけ挙げろと言われたら、 (1)水道水がおいしい (2)コンサートの演目がとにかく豊富 (3)公園があちこちにある ということになる。この条件をすべて満たす街は、世界中を見渡してもそうはない。ウィーンはやはり恵まれているのだ。   「Kinder Culture: Vienna with Children」の記事 によれば、ウィーンには854の公園があるという。我々もこれまで――厳密にカウントしたわけではないけれど――四捨五入して100カ所くらいの公園を巡ってきた。  初めて訪れる場所であっても、「犬も歩けば棒にあたる」じゃないけど、まあとにかく適当に歩いてさえいれば、なにかしら公園に突き当たる。それもほとんど例外なく素敵な公園だ。このあたり、幼児連れの身には本当にありがたい環境である。 (児童公園の所在地図は ウィーン市当局も提供している が、Google Map検索で「spielplatz」と打ち込む方法もある) ウィーン市立公園(Stadtpark) 日本からウィーンに旅行される方でも、公園を一見する価値はあると思う。特に幼児連れの方であれば、ウィーンの人たちの鷹揚な(いくぶん放置気味の)子育てスタイルを横目に見て、どこか解放されるものがあるかもしれない。  たとえば、 ウィーン市立公園(Stadtpark) 。この公園は、ガイドブック的にいえば花時計(Blumenuhr)やヨハン・シュトラウス2世の黄金像が有名ということになるのだが、地下鉄U4「Stadtpark」駅の近くには広い児童公園もあって、地元の子連れでいつも賑わっている。  アクセスは抜群で、遊具も多彩。もしウィーン市民が児童公園の人気投票を行ったら、ここは必ずや上位に入るだろう。そしてそのうちの一票は私が投じることになるだろう。  唯一の難点は、トイレが有料(50セント)ということか。もっとも、約60年前まではベンチに座るだけでお金を取られたらしいので、その頃よりはマシになったと考えるべきなのか。   レッセル・パーク(Resselpark) 地下鉄U1「Karlsplatz」駅の南側出口に直結する レッセル・パーク(Resselpark) も、我が家がよく