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ドイツの日本人街で「新橋」を感じた(デュッセルドルフ)

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ヨーロッパ屈指の日本人街が デュッセルドルフ(Düsseldorf) にある。私は最近までそのことを知らなかった。  ドイツ中西部にあるこの都市のことをはじめて意識したのは、ウィーンで人気の日本料理店「小次郎」で、「当店ではサッポロ西山ラーメン・デュッセルドルフ麺を使用しております」といった意味の張り紙を見かけたときだ。   サッポロ西山ラーメン・デュッセルドルフ麺。  それは、サッポロなのか、デュッセルドルフなのか。  一体どちらが正しいのか。何がどうなっているのか。   「名古屋めし・台湾ラーメン・アメリカン」 という、ちょっと正気とは思えないフレーズ(しかし名古屋の人にはすぐに意味が通じるフレーズ)を連想させるものがそこにはあって、デュッセルドルフの名前は、私の心にしかと刻まれることとなった。  次にその都市名を聞いたのは、カナリア諸島の フエルテベントゥラ島 に行ったときだ。   本ブログの旅行記 でも少し触れたが、ビーチで出会った親子がデュッセルドルフの出身で、「有名な日本人街があるのよ」と教えてくれたのだ。日本企業の支店がたくさんある、と。  それをきっかけに調べてみて、ようやく「サッポロ西山ラーメン・デュッセルドルフ麺」の謎がとけた。要するに、本社が札幌にある 西山製麺 のデュッセルドルフ支店( SAPPORO NISHIYAMA EUROPE GmbH )で作られた麵、という意味だったのだ。  わかってしまえば単純な話だが、その日から私の「旅行欲」はむくむくと成長していった。そう、私は世界各地の「●●人街」を巡るのが好きなのだ。  ペルー・リマのチャイナタウンも、サンフランシスコのジャパンタウンも、江戸川区西葛西のインド人街も、いずれも本国とは違った滋味深さがある。ときに悲哀があり、風雪があり、その土壌でしか育たない固有種が結ぶ果実がある。  日本への帰国願望をあまり持たない私が、「デュッセルドルフには必ず行こう」と決意したのは、だから自然な成り行きであった。  そして、奥さんが日本人好みの美容院に行きたいと漏らしたとき、決意は一足飛びに行動に移されるのであった。 ウィーンからデュッセルドルフへ、国鉄ÖBBの寝台車「 Nightjet 」で12時間かかった 2台の簡易ベッド(

そして帝国は滅んだ(ウィーン軍事史博物館)

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「家族がだめになっていく話」を読むのが好きだ。  たとえば、チェーホフの 「桜の園」 。  たとえば、北杜夫の 「楡家の人びと」 。  たとえば、ガルシア=マルケスの 「百年の孤独」 。  かつて栄華を誇った一族が、いろいろな要因がからまって、避けようもなく衰退してゆく。ゆるやかな滅びへと向かってゆく。  それでも生きていかざるを得ない、よるべなき人たちの群像の物語。そういうものを、学生の頃からいままで、ずっと愛好してきた。  家族とは最小単位の共同体である。そして究極の共同体といえば、これはやはり国である。  だから私は、同じ文脈で、「国がだめになっていく歴史」を追うのも好きだ。  たとえば、 古代ローマ帝国 。  たとえば、 ビザンティン帝国 。  たとえば、 ヴェネツィア共和国 。  生まれてほどなく死んでしまった国よりも、何百年も続いて、世界を掌中におさめるような時代もあったのに、やがて衰亡し、消滅してしまった国のほうに心惹かれる。  そういう意味で、 ハプスブルク帝国(君主国) は、私の興味関心のど真ん中ストレートの国である。  ドイツ文学者の池内紀が、オーストリア政府の観光パンフレットによせて、ハプスブルクの特異さについて文章を書いている。  ハプスブルクは不思議な王家である。まず第一に、おそろしく長命だった。アルプスの一豪族から始まり、その王朝は640年にわたる。7世紀に及んで覇権を握り続けた王家は、ほかに類をみない。  第二に、その間、ほとんど血なまぐさい事件を起こさなかった。王権には権力をめぐる骨肉の争いがつきものであって、何代も続くにつれ、不義、毒殺、謀殺、斬首沙汰などがあとを絶たない。だがハプスブルク家には、これだけ長い統治にあって、その種のことがほとんどなかった。  第三に覇権のためには戦争が不可欠だが、ハプスブルクはまわりの状勢から、やむなく出陣にいたるほかは戦わなかった。にもかかわらず広大な「日の没することのない国」を統治していた。  もう一つ、この王家の支配下にあった民族のこと。ゲルマン系、スラブ系、ラテン系、アジア系と多岐にわたり、こまかくいうと13の民族を数え、使われている言葉もまた、その数に応じていた。途方もない多民族国家が何世紀にもわたり、ひとつの王家のもとにあって、つ

デイリーポータルZで紹介された

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デイリーポータルZ (DPZ)は、インターネット上でまとまった文章を発表する人にとって、いわば北極星のような存在である。  「役には立たないけれども、面白い」 という初期インターネット文化のイデア(理想)を、15年以上にわたって体現しつづけているウェブサイト。それがDPZである。  15年前、私は大学生で、中堅どころのテキストサイトを運営していた。ブログという言葉はまだなくて、みんなが夜なべしてHTMLタグをしこしこと打っていた幸福な時代だ。スタイルシートで行間の距離をあけただけで洗練されたデザインとみなされた幸福な時代だ。  DPZ(初期名称はデイリーポータル)は、その頃から人気のサイトだった。自虐と下ネタにしのぎを削る個人サイトの群れとは一線を画した、けれどもどこかにオルタナティブなにおいを残した、比類なきインターネットの梁山泊であった。  さらに好き放題に褒めちぎってしまえば、DPZこそ、 今和次郎 、 林丈二 、 赤瀬川原平 などの偉大なる先人たちが切り拓いてきた「考現学」の正統な後継者である、と私は(勝手に)思っている。  そんなDPZに、 「自由ポータルZ」 という一般向けの投稿コーナーがある。  先週末、ふと思いたって、これに応募してみた。  私のブログはDPZと「芸風」がかなり異なるので、採用されることはまずないだろう・・・と軽く構えていたのだが、なんと、いきなり 入選してしまった 。 記事タイトルと小見出しの訴求力が弱い、という趣旨の 選評 をいただいた  このブログを続けるモチベーションは、やはり読者の存在が第一である。他方で、「私自身の日本語能力の維持」という要素も捨てがたくある。なにしろ私の所属する部署には日本人がひとりもいないのだ。  その意味で、第一線で活躍するプロのライターから批評をいただくのは、実にありがたいことである。  ちなみに、DPZにも ウィーンを扱った記事 がある。 [ウィーンのソーセージスタンドはヨーロッパのセンベロだ] https://t.co/idUHVW6dUi スタンドで1000円で巨大ソーセージとビールが1Lくらい飲める街、ウイーン。いつか行く街リストに入れました。(林) #DPZ pic.twitter.com/nGiDUfijDh

死ぬ前にここを思い出したい(ハルシュタット)

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オーストリアの旅行ガイドには、 こんなものや、 こんなものや、 こんなものや、 こんなものなど、いかにも「アルプスの秘境」といった写真が並んでいる。  それらは、あまりに美しすぎて、あまりに幻想的すぎて、本当は実在しないのではないか、なにか肝心なところで騙されているのではないか、という胸騒ぎを起こさせる。  いざ行ってみたら、暴力団構成員みたいな人たちが、どこからともなく現れて、たこ殴りにされるのではないか。  不安は高まるばかりである。  けれども私は、「アルプスの秘境」としておそらく最も有名な場所へ、ひとつ覚悟を決めて行ってみることにした。  秘境は、しっかりと実在していた。騙されてはいなかった。暴力団構成員みたいな人たちがどこからともなく現れて、たこ殴りにされることもなかった。  たしかに美しく、幻想的だった。  いつか私が死ぬとき、ここで見た風景が、子どもたちと手をつないで見た風景が、まぶたの裏によみがえったらどんなに素敵だろうか。   ハルシュタット(Hallstatt) は、そう思わせるような場所だった。 塩のある場所 オーストリアの湖水地帯 ザルツカンマーグート( Salzkammergut ) の深奥にあるハルシュタットは、人口800名にも満たない小さな村である。  こんなに住民が少ないのは、アルプスの山と湖の狭間にあって、まともな人間の住める平地がほとんどないからだ。  小さな家たちが、断崖を背に、ぎゅっとしがみつくようにして建っている。アスファルトの割れ目からしぶとく生えてくる雑草たち、という喩えは不適切かもしれないけれど、なんだかそういう趣きがある。  ハルシュタットの歴史は、意外にも古い。鉄器時代のはじめ、紀元前800年頃にケルト人が移り住んだ痕跡があるという。なぜこんな大変な土地にやってきたのか。それは、このあたり一帯から、品質のよい岩塩が採れたからだ(かつてアルプス山脈は海の底にあった)。  当時、塩はとても貴重だったので、ケルト人たちは裕福に暮らしていたようだ。ちなみに、 ハル(Hall) はケルト語で「塩」、 シュタット(Statt) はドイツ語で「場所」を意味する。  塩の採掘