可愛い子どもと旅をしよう

「パパ、ロンドンってアジアなの?」と、6歳児が言った。

 なかなか独自性のある質問だ。

 ちがうよ、ロンドンはヨーロッパだよ、と答えたあと、逆に私は訊いてみた。

「どうしてアジアだと思ったの?」

「だって、日本と同じで、ここは車が左側通行だから」




「パパ、イランって、アメリカと喧嘩しているの?」と、6歳児が言った。

 なかなか直球の質問だ。

「うーん、そうだね。仲は良くないね。というか、かなり悪いね」

「トルコとイランも仲が悪いの?」と息子が尋ねる。彼にはトルコ人の級友がいるのだ。

「あんまり良くはないかな」と私は言う。トルコ製のビールがイランに密輸入されていたり、ほかにも水面下で利害が一致している話をしようと思ったが、やっぱりやめた。私にも少しは分別がある。

「それじゃあ、アメリカとトルコは仲がいいんだ」と息子がひとりでに納得した。「だって、同じ人と喧嘩している同士は、自然と仲良しになるからね」

 私はうなった。それは外交の本質であるように思われたからだ。




 行き先を決めずに電車に乗る旅をして、よくわからない駅で下車をする。Googleで調べてもウィキペディア・ドイツ語版くらいしかヒットしない、よくわからない町を散歩する。

 その日は(2kmほど離れた)次の駅まで歩くことにした。最短距離の3倍弱の寄り道をして、もうすぐ日が暮れようとする頃合いになって、ようやくゴールが見えてきた。

「さて、どっちがウィーン行きのホームかな」とつぶやいた私に、6歳の息子は迷いなく片方を指さした。

「パパ、行きは右側の線路で降りたから、帰りはきっと左側だよ」




羞恥の念

私はいま、恥ずかしい気持ちになっている。ここまで息子自慢みたいなことを書き連ねていることに気がついて、とても恥ずかしい気持ちになっている。

 我が子を誇るのは本題にあらず。というより、むしろ息子は年齢相応の(あるいは性別相応の)不注意をたくさんしでかす。

 彼の名誉のためにここには書かないが、パンツの上にべつのパンツを履いたまま通学したり(帰宅まで気づかない)、ジャケットの上にべつのジャケットを着たまま通学したり、ミトンを買った2日後に電車に置き忘れたりする。愛すべき平凡な男の子である。




 私がここで提示したいのは、

 子どもたちと一緒に旅をしていると、ある種の副次効果として、彼らの「考える力」が鍛えられるのではないか。

という仮説である。

(「副次効果」と書いたのは、私が旅をする主な目的は、子どもの教育云々のためでは決してなく、あくまで自身の好奇心を満たすためであるからだ。私は東洋経済や週刊ダイヤモンドの教育系記事の惹句よりも、自らの欲望にずっと忠実な人間なのである)

 この仮説を検証するにはずいぶん時間がかかりそうだが、それはさておき、私が子どもと旅するときに心がけていることを、自らの備忘を兼ねて以下に3つほど記してみたい。




1.子どもに自分で決めさせる

レストランでの注文。スーパーで購入する「ひとつだけ」のお菓子。小さなことでいいから、子どもに決める権利をアウトソースする。大げさに言えば、意思決定の練習をさせるのだ。

 これは友人家族の習慣から倣ったものだが、我ながら真似をしてよかったと思う。

 私は見知らぬ土地をそぞろ歩くのが好きなので、しばしば息子に「どちらの道に行くか」を決めてもらう。

 はじめこそ気の向くままに選んでいるが、いくつかの小さな失敗を経て(例:もと来た道に戻ってしまう)、手づくりの判断基準が備わってくるのが興味深い。「川に沿って行けば迷わない」とか、「団地の近くには児童公園があるはず」とか、常に正しいとは限らずとも、幼児なりの仮説と検証がそこにはある。

 決断するにはリスクが伴う。でもそうしないと人生はおもしろくならない。

 私が子どもに伝えたいのはこういうことだ。




2.「Yes/No」に収まらない質問に価値を置く

「Yes/No」の2択を迫ること自体は悪くない。「おしっこ、出そう?」「うんこ、出た?」などは、ときには死活的な問いである。ファクトを確認せずには前進できない物事もある。

 しかしここでは、緊急性の高い大小便の問題から距離をおき、もう少しリラックスした状況を前提として、

 「①ロンドンには、なぜ路面電車がないの?」とか、

 「②ロンドンの地下鉄(Tube)を走る車両の窓ガラスは曲がっているけど、どうやってつくるんだろう?」とか、

 「③ロンドンのポストはどうして日本と同じ赤色なのかな?」とか、

 そういった種類のオープン・クエスチョンを、私は大事にしたいのだ。

 ちなみに上記の質問のうち、「①」は3歳児が、「②」は6歳児が、「③」は私が投げかけた質問だ。

 「③」は質問者(=私)がうっすら答えを知っているために不純物が混じっているのだが、「①」と「②」は子どもの無垢なる好奇心に出自していて、その意味で純粋な質問といえる。そしてそういう問い立てが生まれたとき、私はあえて大げさにリアクションする。

 それは・・・すっごく・・・いい質問だねぇ・・・。なんとも、すばらしい質問だなぁ!

 うーん、パパにはわからん・・・アー、まいった。じつにグッドなクエスチョンだよッ!

 文字に起こすと妙にアホっぽくなるのは、どういうわけか。
 これもまた「Yes/No」には収まらない類の問いではある。




3.トラブルのときには一緒に困る

父親といえども、つまるところは未完成な人間だ。失敗するし、愚行もする。矛盾をはらみ、非合理に向かう。治らない性癖を持ち、昏い精神を宿す。

 これは、我が家でつとに知られた事実である。なぜなら旅行をしていると、頻繁にトラブルに巻き込まれ(あるいは自らトラブルを招き寄せて)、またそこで情けない反応をしてしまう展開が多いからだ。

 避けようとして避けられない、漆黒の艱難&辛苦。
 それを克服できない人間の弱さ。もとい私の弱さ。

 でもそれでいい、と私は思っている。完璧な人物を演じようとして最終局面で大きな破綻を迎えるよりも、旅行中の受難を通じて、段階的に、積立預金を崩すように小さな破綻を重ねていく方が、長い目でみれば子どものためになるのではないか。

 そういうわけだから、私が難局に直面したときには、子どもたちにも解決策を募る。キエフで所持金を盗まれたときは、「みんなからお金をもらえばいいじゃない」という6歳児からの温かいアドバイスを授かった。オフリドでバスの停留所を見失ったときは、「それじゃあヘリコプターで行こうよ」という3歳児からのラディカルな提案をいただいた。

 その実効性はさておき、「トラブルのときは一緒に困り、パパの人間的な弱さを曝け出し、子どもたちからも解決のアイデアを出してもらう」というのが我が家の方針である。そうすることで子どもたちの立案能力が養われるし、私の心理的負担が軽くもなるのだ。
 



結論

子どもたちと一緒に旅をするとき、私が心がけている3つのこと。

 1. 子どもに自分で決めさせる。
 2. Yes/Noに収まらない質問に価値を置く。
 3. トラブルのときには一緒に困る。

 これが正しいと主張するつもりはない。誰かに押しつけるわけでは毛頭ない。あくまでひとつのケースとして、読者諸賢の目に触れるスペースに、拙文を陳列するばかりである。

 そして私の思うところ、旅行とは「知らない場所を訪ねる」ことだ。だから無理をしてまでキエフやらコソボやらに行かなくていい。隣町の商店街とか、普段は降りない駅の周辺とか、そうしたレベルの非日常でも、充分といえば充分なのだ。可愛い子どもと旅をしよう。
 

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