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私たちは、やがて、死ぬ(ウィーン中央墓地と葬儀博物館)

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ウィーン、と小さく声に出してみると、それだけで華やかな響きがある。「音楽の都」とか、「芸術の都」とか、そうした枕詞が好まれる古都。  間違いではない。それらはウィーンの明白なアイデンティティだ。  しかし、百年単位で歴史をさかのぼると、べつの一面もたちあがる。  ウィーンは、 セックスの都 (ヨーロッパで最初に売春が公認され、王家や貴族もよく性病に罹患した。⇒ 加藤雅彦「図説 ハプスブルク帝国」 p.103)であり、 犯罪の都 ( バラバラ殺人、偽札づくり、爆弾魔による無差別テロなどが横行した )であった。ガイドブック等では熱心に紹介されない出来事が、ここにはたしかに存在した。  要すれば往時のウィーンは、瘴気に満ちた不健全都市であった。でもそのおかげで エゴン・シーレ のような天才が育った。無菌室から芸術は生まれないのだ。 「死の都」が掲げるウィーン中央墓地 ウィーンはまた、 死の都 でもあった。   シュテファン大聖堂 の地下には、ハプスブルク家の人びとの内臓が納められている(※)。死臭のたちこめる静謐な空間は、地上の繁栄とはまったく切り離された世界である。 ※ 大聖堂の地下墓所に入るにはツアーに参加しなければならないが、1年で1日だけ、 Lange Nacht der Kirchen(教会の長い夜) の日には無料で一般開放される。このタイミングを狙って旅程を組むのも一案だ。  1874年につくられた ウィーン中央墓地 は、地元民にも観光客にも人気のスポットである。  墓地が人気のスポットとはなんだか奇妙な感覚だ。でもヨーロッパ(とくにカトリック圏)にいると、死者に対する慕情のあり方が、からっと乾いているような印象を抱くことがある。   ハルシュタット や パリ などの納骨堂も、まず無言の達観があり、そこから情緒がワンテンポ遅れてくるような趣きだ。その様相は、イスラム教とも仏教とも、ロシア正教とも少し違う。  とくに学術的根拠があるわけではないのだが(私の見解はつねに学術的根拠を持たない)、あちこち節操なく旅をするうちに、私はそう思うようになった。 ウィーン中央墓地といえば ゴルゴ13 の名エピソード 「魔笛のシュツカ」 の舞台だ 墓地をめぐる観光ツアーも組まれてい...

ナチスドイツと東京メトロが共存する空間(ウィーン交通博物館)

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ウィーンの冬に、子どものいる家庭は行き場所に困りがちである。  公園は寒すぎるし、動物園は寒すぎるし、テラス席は寒すぎる。とにかく寒すぎるのだ。  そういうわけで、 部屋遊びに飽きた子どもたちの欲求を開放させるためにも 、 技術博物館 (遊び場が充実) とか、 Monki Park (同左)とか、 Dianabad (屋内プール)といった具合に、いくつかの「冬用スポット」を確保することが重要になってくる。  そのひとつに、 交通博物館 (Verkehrsmuseum Remise)がある。 廃止された駅がそのまま博物館に使われていて息子は大興奮。ジャケットを脱ぎだした 線路の区域内に立ち入る「非日常感」に息子は大興奮。ジャケットを脱ぎだした Sonderzug (臨時電車)という既知の単語に息子は大興奮。ジャケットを脱ぎだした 興奮ポイントがあり過ぎる この博物館は、1865年にウィーンではじめて使われた 馬車鉄道 (Pferdetramway)から、現役ばりばりの 地下鉄 「U-bahn」 までの鉄道史を、気前のよい実物展示と子どもたちを喜ばせるギミック満載で紹介する施設である。  我が息子たちは、すでに入り口の時点で声のトーンが1オクターブ高くなっていたが、  車庫に侵入しているような展示手法が醸し出すスリル感や、 (ちなみに1年前、ドイツ語のアナウンスがわからず回送電車に乗ったまま Floridsdorf 駅近くの車庫に運ばれてしまったことがあって、息子はこのときのことをずっと覚えている) 20世紀前半のトラム(路面電車)のシックな内装や、 地下鉄「U1」と「U3」の実路線を運転できるシミュレーターや、 木造りの模型で遊べるコーナーで、その逐一において喜びを全身で表現してゆく。鉄道への愛の追求には果てしがないのであった。 お金を払えばトラムの貸し切りパーティーができる 時間の「遠近法」に危うさが出てくる とはいえ、鉄道への愛については、私にとっても他人事ではない。  幼年から成年に至る過程で、すでに通り過ぎて、鎮静していたはずの情熱。それがウィーンの歴史に触発され、あるいは息子たちの無償の集中に触発され、...

でもウィーンにいるなら、クラシック音楽をやはり聴きたい

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ウィーンに旅行する人にも、出張で来る人にも、 ウィーン楽友協会(Musikverein) の公演に行くことを私はよくおすすめしている。  夏休みなどのシーズンオフを除けば、ほとんど毎日なにかしらのコンサートがある。夜の部はだいたい19時台か20時台にはじまるので、(世話の焼ける上司がいなければ)無理なく参加できるだろう。  楽友協会の 公式サイト では、ちゃんと日本語も選択できる。オンラインで購入して、渡航前にチケットを印刷すれば、あとは会場に足を運ぶだけだ。行列に並ぶ必要はないし、ダフ屋と取引をする必要もない。まことに便利な世の中である。 公式サイトの「3D座席表」は、視認性に優れたデザイン  体力に自信があれば10ユーロ程度の「立ち見席」。椅子に座りたければ20ユーロ程度の2階の端席、通称「貧民席」がおすすめだ。モーツァルトに扮装した輩から「観光客用チケット」を掴まされるよりはずっといい(註:ウィーンの路上にはそういう客引きがいるのです)。  クラシックはよく知らないとか、セレブに囲まれるのは恥ずかしいとか、そんな心配は無用である。私自身もクラシックには詳しくないし、コンサートの客層だって、(こう言っちゃなんだけど)そんなに立派な人ばかりでもない。まあこれは「貧民席」ばかりに座る私の観察者バイアスかもしれないけれど。 出張の夜に行くコンサートは心にしみる(※ 個人の感想です) そのような具合に、私はウィーンへの出張者たちに熱心に説いている。というのは、ほかならぬ私が日本にいたとき、出張の夜にあちこち出かけていたからだ。  たとえば、シンガポール出張では エスプラネード・ホール で シンガポール交響楽団 のご機嫌なベートーヴェン交響曲第2番を、カナダ出張ではグレン・グールドの出身校として知られる トロント王立音楽院 で ステファノ・ボラーニ・トリオ の熱いモダンジャズをたのしんだ。  仕事での出張という、ほとんど他律的な要素で占められるイベントのなかで、わずかに残された自律的な時間枠をコンサートに充てる。そうすると、通常時とは違ったアングルで音楽が心にしみてくるし、そのときたまたま巡りあわせた演奏という「一期一会」のドライブ感も際立ってくる。事実、上に挙げた2件は、いまでも血の通った記憶として私の内に残っている。 ...

そして帝国は滅んだ(ウィーン軍事史博物館)

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「家族がだめになっていく話」を読むのが好きだ。  たとえば、チェーホフの 「桜の園」 。  たとえば、北杜夫の 「楡家の人びと」 。  たとえば、ガルシア=マルケスの 「百年の孤独」 。  かつて栄華を誇った一族が、いろいろな要因がからまって、避けようもなく衰退してゆく。ゆるやかな滅びへと向かってゆく。  それでも生きていかざるを得ない、よるべなき人たちの群像の物語。そういうものを、学生の頃からいままで、ずっと愛好してきた。  家族とは最小単位の共同体である。そして究極の共同体といえば、これはやはり国である。  だから私は、同じ文脈で、「国がだめになっていく歴史」を追うのも好きだ。  たとえば、 古代ローマ帝国 。  たとえば、 ビザンティン帝国 。  たとえば、 ヴェネツィア共和国 。  生まれてほどなく死んでしまった国よりも、何百年も続いて、世界を掌中におさめるような時代もあったのに、やがて衰亡し、消滅してしまった国のほうに心惹かれる。  そういう意味で、 ハプスブルク帝国(君主国) は、私の興味関心のど真ん中ストレートの国である。  ドイツ文学者の池内紀が、オーストリア政府の観光パンフレットによせて、ハプスブルクの特異さについて文章を書いている。  ハプスブルクは不思議な王家である。まず第一に、おそろしく長命だった。アルプスの一豪族から始まり、その王朝は640年にわたる。7世紀に及んで覇権を握り続けた王家は、ほかに類をみない。  第二に、その間、ほとんど血なまぐさい事件を起こさなかった。王権には権力をめぐる骨肉の争いがつきものであって、何代も続くにつれ、不義、毒殺、謀殺、斬首沙汰などがあとを絶たない。だがハプスブルク家には、これだけ長い統治にあって、その種のことがほとんどなかった。  第三に覇権のためには戦争が不可欠だが、ハプスブルクはまわりの状勢から、やむなく出陣にいたるほかは戦わなかった。にもかかわらず広大な「日の没することのない国」を統治していた。  もう一つ、この王家の支配下にあった民族のこと。ゲルマン系、スラブ系、ラテン系、アジア系と多岐にわたり、こまかくいうと13の民族を数え、使われている言葉もまた、その数に応じていた。途方もない多民族国家が何世紀にもわたり、ひとつの王家のもとにあって、つ...