ウィーンにいても、クラシック音楽ばかり聴くわけではない
ウィーンはよく「音楽の都」と称される。しかしその「音楽」とは、多くの場合、クラシック音楽のことである。ある種の暗黙の前提として。
たとえば、Radioheadとか、Zeddとか、Squarepusherとか、Gorillazとか、Kettelとか、そういうのはあまりウィーンに似合う音楽とは言えないだろう。
けれども私は、そうした音楽をわりに好んで聴いている。これはあくまで私の個人的な感覚だが、古風なウィーンの街並みに、クラシック音楽はあまりにマッチしすぎる。それが私には少しばかり気恥ずかしいのだ。
最近は、Amazon Prime MusicやiTunesなどで、妙に日本のアーティストばかり選んでいる。大橋トリオとか、Kaito(a.k.a. Hiroshi Watanabe)とか、jizueとか、Suchmosとか、ゲスの極み乙女。とか、米津玄師とか、tofubeatsとか、宮内優里とか、fox capture planとか。
こうして並べてみると、本当に日本人ばかりだ。ウィーンで邦楽が流れることは滅多にないので、こういうところで帳尻を合わせているのかもしれない。(ヴォティーフ教会そばのレストラン「Das Kolin」でUyama Hirotoの「freedom of the son」をまるごとかけていて、それはもう喜びに震えたものだが、ここ1年ではほぼそれだけだ)
これまでジャンルを問わずいろいろな音楽を聴いてきた。でも直近15年くらいを見渡して、ほとんど変わらぬ熱量をもって聴き続けてきたのは、ZAZEN BOYSとSmall Circle of Friendsの2組だけだ。新譜が出れば、必ず買う。かける曲に迷ったら、とりあえずビール、みたいな感覚で、とりあえず聴く。私にとって彼らはそのような存在だ。
ZAZEN BOYSの化け物じみた演奏力、孤峰のような楽曲のオリジナリティは、いつなんどきに聴いても私の魂にキックする。荒ぶるリリックも、年を経て印象は変われど色あせない。なかなか新作が出ないのが困りものだが、向井秀徳アコースティック&エレクトリックの名義でもいいからアルバムを出してほしい。頼むから。できることならなんでもするから。
Small Circle of Friendsは、30代も折り返し点を過ぎた私の心に、どういうわけか以前よりも細密な粒度で浸みこんでくる。ヒット・チャートの上位に輝くような派手さはないし、進歩しているのか足踏みしているのかよくわからない部分もあるのだが(すみません)、デビューから約25年にわたってファンから静かにひたむきに愛されつづけてきた、いわば日本の音楽界のマイナー・ポエットのような人たちである。
JBLの小型Bluetoothスピーカーも持っているのだが、自宅で好きな曲をかけていると、だいたい家族からは不評である。モーツァルトの「魔笛」を大音量で流していたら、2歳の息子が泣き出した。おそらくオペラ特有の歌唱法が、なにかしら幼児の恐怖心を刺激したのだろう。まあたしかに、よく知らないままに「ツェルニィィィィィィィッヒェン!」とかいう叫び声が聞こえたら、これはちょっと命の危険を感じるかもしれない。悪いことをしてしまった。
それで息子たちがどんな音楽を聴くかといえば、これはもうオーソドックスに唱歌である。英語7割、日本語3割。英語の比率が高いのは、ひとえにYouTubeのコンテンツの豊富さゆえ。魔笛で泣いた息子も「Muffin Man」を流せばご機嫌だ。良くも悪くも、精神の安定を取り戻す回復装置のような位置づけになっているのだ。
日本の中央省庁からウィーンの政府代表部に出向して、今年の夏に任期を終えて帰国したSさんが、我々にスマートテレビを譲ってくれた。
この文明の利器で観るYouTubeは、なにしろ大画面で(それまでは専らiPadで観ていた)、我が家に初めて導入された日の息子たちの動揺ぶりは空前だった。ペリー提督の黒船が浦賀沖に来航したとき、江戸幕府の家臣たちはこんな反応だったのか、と察せられるほどであった。
「あっ、これ、えっ?」
「えっ、えあっ?」
「おえあっ?」
言葉になっていないのだ。
それ自体はまあ良いことなのだが(殺人の動画に親しむよりは良いだろう)、ひとつ悩ましいのは、幼児向けの歌というのは一般の成人男性には退屈なものである、ということだ。
とくに何十回、何百回と繰り返し鑑賞していると(鑑賞を余儀なくされる状況にあると)、その退屈さはより強調されることになる。端的に言って「もう勘弁してくれ」みたいなことになる。
かといって、ここで再び「魔笛」をかけると、2歳児は泣きだし、5歳児は叫びだし、舞台袖からは夜の女王の扮装をした奥さんが出現し、私の家庭内立場は鳥刺し男パパゲーノのように寄る辺なきものとなる。やがて私は破滅する。
このような展開は、できれば避けたい。他方で、一定程度には私の音楽的欲求(というほど大層なものでもないけど)も満たしたい。
いくつかの試行錯誤を経て、我々がたどり着いた解決策としての妥協(アウグスライヒ)。それは、「子どもが喜ぶダンスの場面をふんだんに含むMVを流す」というものであった。
たとえば、サカナクションの「新宝島」。
このMVは、明らかにドリフ大爆笑のオープニングのパロディである。昭和の垢抜けなさが再解釈された、平成の洗練がそこにある。
でも子どもたちはそんなことには頓着しない。ただ素朴にキレのよいダンスと、回り舞台の仕掛けのおもしろさに目を奪われている。それでまったく問題ないのである。
たとえば、Boogie Mann/七尾旅人の「Future Running」。
この曲の聴きどころは、繰り返される謎に前向きなフレーズ、そして3分48秒あたりからの「違法ドラッグでもキメてんのか?」と思わせる怒涛の展開だろう。
しかし子どもたちの興奮ポイントは、その音楽ではない。高速道路で狂ったようにステップを踏みまくる七尾旅人に「うわぁ、車がくるよ、あぶないよ!」と叫び、ひたすら気をもんでいる。彼らには合成映像という概念がまだ無いのである。
SAKEROCKの「会社員」のMVも、我が子たちの哄笑を誘う。横断歩道や商店街でスーツ姿のおじさんが踊りだす、そのおかしみは私にも幼児にも共有可能(shareable)なのであった。
この小太りのダンサーは、いまから20年後の星野源・・・ではもちろんなくて、井出茂太という前衛舞踏家である。私は彼のファンで、日本に住んでいたとき、同氏率いるイデビアン・クル―の公演に何度か行った。まったくわけがわからなくて最高で、のちにUCバークレーの学芸会でも私は井出氏のダンスを模倣し、大いにウケた。そういう意味では(きわめて一方的ながら)長らくお世話になっている人なのである。
5歳の息子は、この動画をはじめて観たとき、「あれ、パパが踊ってるよ!」と言った。
2歳の息子は、「パパ、パパ」と言った。
これについては、ノーコメントである。
スーツ姿のダンサーといえば、World Orderの一連のMVも外せない。
ウィーンの国連ビルではあらゆる国の賓客を見かけるが、こういう黒ずくめのスーツ集団はほとんど日本人と韓国人だけである(中国人はもうちょっとラフな格好をしている)。だからこそ、この人たちのユニークさはグローバルに通用するとも言える。それから、踊りの奇抜さばかりが注目されがちだけど、全体にマイナー・トーンな楽曲は不思議に聴き飽きしないし、その質はとても高いと私は思う。
子どもたちは、ダンスのおもしろさに加えて、「ヨーロッパ篇」に出てくるスーパーや路面電車の風景も嬉しくてたまらないようだ。いつかウィーンでも撮影してほしいですね。
日本が誇るAC部の手がけたMVには、「ドラゴンボール」や「ストリートファイターⅡ」のパロディとおぼしき箇所がいくつもあるけれど、子どもたちは(サカナクションの「新宝島」のように)そういう背景を抜きにして、この狂った世界観を全身で愛してしまった。
愛するあまり、「きのこを食べました」とか、「みんなが大好きさ」とか、「褒められて伸びるタイプです」とかいった歌詞の端々を、ついに暗誦するようになってしまった。
自分で見せておいてこんなことを言うべきではないのはわかっているが、実に困ったものである。まあ、少なくとも(表面的には)前向きな歌詞であるのは良かったけれど。これがもしZAZEN BOYSだったら、「よみがえる性的衝動」とか、「安眠棒で殺された」とか、もっとひどいことになっていたわけだから。
「GAL男宣言」は、緯度経度を問わず熱心なファンを獲得した作品のようで、スペイン語圏の人たちが「勝手につくった実写版MV」もYouTubeにはアップロードされている。
この完成度がすごく高くて、原作(というか)への愛がひしひしと伝わってくる。息子たちは繰り返し繰り返し視聴して、繰り返し繰り返し同じところで笑っている。そう、幼児というのは繰り返しに強い生き物なのであった。
「GAL男宣言」のMVを見ながら育った子どもが、この地球上にはどれだけいるのか。これからどれだけ出てくるのか。さすがにちょっと想像がつかない。ゼロでないことを祈りたい。この広い世界のどこかで、息子のほかにも存在することを祈りたい。
そして20年後あたりに、息子はその人と偶然に出会って、なにかの拍子に、それぞれの子ども時代の話になるのだ。
「子どもの頃、YouTubeを親によく見せられましてね」
「あー、うちもそうでした」
「YouTubeってまだあるのかな」
「上の世代はまだ見ているみたいだけど」
「ぼくは、GAL男宣言とかいう変な動画が好きでね」
「えっ、それってもしかして、きのこを食べるやつ?」
「そうそう」
そんな会話をきっかけに、息子はその人と親しくなり、やがて運命を共にすることになる。
彼の傍らに私の姿はもうない。
息子は息子の人生を歩むのだ。
そのとき私は、何をしているか?
私は静かにYouTubeを見るのだ。
たとえば、Radioheadとか、Zeddとか、Squarepusherとか、Gorillazとか、Kettelとか、そういうのはあまりウィーンに似合う音楽とは言えないだろう。
けれども私は、そうした音楽をわりに好んで聴いている。これはあくまで私の個人的な感覚だが、古風なウィーンの街並みに、クラシック音楽はあまりにマッチしすぎる。それが私には少しばかり気恥ずかしいのだ。
最近は、Amazon Prime MusicやiTunesなどで、妙に日本のアーティストばかり選んでいる。大橋トリオとか、Kaito(a.k.a. Hiroshi Watanabe)とか、jizueとか、Suchmosとか、ゲスの極み乙女。とか、米津玄師とか、tofubeatsとか、宮内優里とか、fox capture planとか。
こうして並べてみると、本当に日本人ばかりだ。ウィーンで邦楽が流れることは滅多にないので、こういうところで帳尻を合わせているのかもしれない。(ヴォティーフ教会そばのレストラン「Das Kolin」でUyama Hirotoの「freedom of the son」をまるごとかけていて、それはもう喜びに震えたものだが、ここ1年ではほぼそれだけだ)
これまでジャンルを問わずいろいろな音楽を聴いてきた。でも直近15年くらいを見渡して、ほとんど変わらぬ熱量をもって聴き続けてきたのは、ZAZEN BOYSとSmall Circle of Friendsの2組だけだ。新譜が出れば、必ず買う。かける曲に迷ったら、とりあえずビール、みたいな感覚で、とりあえず聴く。私にとって彼らはそのような存在だ。
ZAZEN BOYSの化け物じみた演奏力、孤峰のような楽曲のオリジナリティは、いつなんどきに聴いても私の魂にキックする。荒ぶるリリックも、年を経て印象は変われど色あせない。なかなか新作が出ないのが困りものだが、向井秀徳アコースティック&エレクトリックの名義でもいいからアルバムを出してほしい。頼むから。できることならなんでもするから。
Small Circle of Friendsは、30代も折り返し点を過ぎた私の心に、どういうわけか以前よりも細密な粒度で浸みこんでくる。ヒット・チャートの上位に輝くような派手さはないし、進歩しているのか足踏みしているのかよくわからない部分もあるのだが(すみません)、デビューから約25年にわたってファンから静かにひたむきに愛されつづけてきた、いわば日本の音楽界のマイナー・ポエットのような人たちである。
テレビで観るYouTubeが、我々の生活を一変させた
いま挙げたような音楽を、私は主にBOSEのワイヤレスヘッドホンで聴いている。JBLの小型Bluetoothスピーカーも持っているのだが、自宅で好きな曲をかけていると、だいたい家族からは不評である。モーツァルトの「魔笛」を大音量で流していたら、2歳の息子が泣き出した。おそらくオペラ特有の歌唱法が、なにかしら幼児の恐怖心を刺激したのだろう。まあたしかに、よく知らないままに「ツェルニィィィィィィィッヒェン!」とかいう叫び声が聞こえたら、これはちょっと命の危険を感じるかもしれない。悪いことをしてしまった。
それで息子たちがどんな音楽を聴くかといえば、これはもうオーソドックスに唱歌である。英語7割、日本語3割。英語の比率が高いのは、ひとえにYouTubeのコンテンツの豊富さゆえ。魔笛で泣いた息子も「Muffin Man」を流せばご機嫌だ。良くも悪くも、精神の安定を取り戻す回復装置のような位置づけになっているのだ。
5歳の息子は、ついにYouTubeの起動画面を描くようになった |
日本の中央省庁からウィーンの政府代表部に出向して、今年の夏に任期を終えて帰国したSさんが、我々にスマートテレビを譲ってくれた。
この文明の利器で観るYouTubeは、なにしろ大画面で(それまでは専らiPadで観ていた)、我が家に初めて導入された日の息子たちの動揺ぶりは空前だった。ペリー提督の黒船が浦賀沖に来航したとき、江戸幕府の家臣たちはこんな反応だったのか、と察せられるほどであった。
「あっ、これ、えっ?」
「えっ、えあっ?」
「おえあっ?」
言葉になっていないのだ。
解決策としての妥協(アウグスライヒ)
そういうわけで、息子たちはBabyBusなどの番組を通じて、日がな唱歌に親しんでいる。それ自体はまあ良いことなのだが(殺人の動画に親しむよりは良いだろう)、ひとつ悩ましいのは、幼児向けの歌というのは一般の成人男性には退屈なものである、ということだ。
とくに何十回、何百回と繰り返し鑑賞していると(鑑賞を余儀なくされる状況にあると)、その退屈さはより強調されることになる。端的に言って「もう勘弁してくれ」みたいなことになる。
かといって、ここで再び「魔笛」をかけると、2歳児は泣きだし、5歳児は叫びだし、舞台袖からは夜の女王の扮装をした奥さんが出現し、私の家庭内立場は鳥刺し男パパゲーノのように寄る辺なきものとなる。やがて私は破滅する。
このような展開は、できれば避けたい。他方で、一定程度には私の音楽的欲求(というほど大層なものでもないけど)も満たしたい。
いくつかの試行錯誤を経て、我々がたどり着いた解決策としての妥協(アウグスライヒ)。それは、「子どもが喜ぶダンスの場面をふんだんに含むMVを流す」というものであった。
たとえば、サカナクションの「新宝島」。
このMVは、明らかにドリフ大爆笑のオープニングのパロディである。昭和の垢抜けなさが再解釈された、平成の洗練がそこにある。
でも子どもたちはそんなことには頓着しない。ただ素朴にキレのよいダンスと、回り舞台の仕掛けのおもしろさに目を奪われている。それでまったく問題ないのである。
たとえば、Boogie Mann/七尾旅人の「Future Running」。
この曲の聴きどころは、繰り返される謎に前向きなフレーズ、そして3分48秒あたりからの「違法ドラッグでもキメてんのか?」と思わせる怒涛の展開だろう。
しかし子どもたちの興奮ポイントは、その音楽ではない。高速道路で狂ったようにステップを踏みまくる七尾旅人に「うわぁ、車がくるよ、あぶないよ!」と叫び、ひたすら気をもんでいる。彼らには合成映像という概念がまだ無いのである。
SAKEROCKの「会社員」のMVも、我が子たちの哄笑を誘う。横断歩道や商店街でスーツ姿のおじさんが踊りだす、そのおかしみは私にも幼児にも共有可能(shareable)なのであった。
この小太りのダンサーは、いまから20年後の星野源・・・ではもちろんなくて、井出茂太という前衛舞踏家である。私は彼のファンで、日本に住んでいたとき、同氏率いるイデビアン・クル―の公演に何度か行った。まったくわけがわからなくて最高で、のちにUCバークレーの学芸会でも私は井出氏のダンスを模倣し、大いにウケた。そういう意味では(きわめて一方的ながら)長らくお世話になっている人なのである。
5歳の息子は、この動画をはじめて観たとき、「あれ、パパが踊ってるよ!」と言った。
2歳の息子は、「パパ、パパ」と言った。
これについては、ノーコメントである。
スーツ姿のダンサーといえば、World Orderの一連のMVも外せない。
ウィーンの国連ビルではあらゆる国の賓客を見かけるが、こういう黒ずくめのスーツ集団はほとんど日本人と韓国人だけである(中国人はもうちょっとラフな格好をしている)。だからこそ、この人たちのユニークさはグローバルに通用するとも言える。それから、踊りの奇抜さばかりが注目されがちだけど、全体にマイナー・トーンな楽曲は不思議に聴き飽きしないし、その質はとても高いと私は思う。
子どもたちは、ダンスのおもしろさに加えて、「ヨーロッパ篇」に出てくるスーパーや路面電車の風景も嬉しくてたまらないようだ。いつかウィーンでも撮影してほしいですね。
ポリスマンの「GAL男宣言」が、息子の嗜好に一撃を加えた
とどめをさすのは、ポリスマンの「GAL男宣言」である。日本が誇るAC部の手がけたMVには、「ドラゴンボール」や「ストリートファイターⅡ」のパロディとおぼしき箇所がいくつもあるけれど、子どもたちは(サカナクションの「新宝島」のように)そういう背景を抜きにして、この狂った世界観を全身で愛してしまった。
愛するあまり、「きのこを食べました」とか、「みんなが大好きさ」とか、「褒められて伸びるタイプです」とかいった歌詞の端々を、ついに暗誦するようになってしまった。
自分で見せておいてこんなことを言うべきではないのはわかっているが、実に困ったものである。まあ、少なくとも(表面的には)前向きな歌詞であるのは良かったけれど。これがもしZAZEN BOYSだったら、「よみがえる性的衝動」とか、「安眠棒で殺された」とか、もっとひどいことになっていたわけだから。
愛するあまり、ついに5歳児の「創作番組表」にも登場するようになった |
愛するあまり、ついに「GAL男がきのこを摂取するシーン」を模写するようになった |
愛するあまり、ついに「GAL男が母親に説教されるシーン」を模写するようになった |
「GAL男宣言」は、緯度経度を問わず熱心なファンを獲得した作品のようで、スペイン語圏の人たちが「勝手につくった実写版MV」もYouTubeにはアップロードされている。
この完成度がすごく高くて、原作(というか)への愛がひしひしと伝わってくる。息子たちは繰り返し繰り返し視聴して、繰り返し繰り返し同じところで笑っている。そう、幼児というのは繰り返しに強い生き物なのであった。
「GAL男宣言」のMVを見ながら育った子どもが、この地球上にはどれだけいるのか。これからどれだけ出てくるのか。さすがにちょっと想像がつかない。ゼロでないことを祈りたい。この広い世界のどこかで、息子のほかにも存在することを祈りたい。
そして20年後あたりに、息子はその人と偶然に出会って、なにかの拍子に、それぞれの子ども時代の話になるのだ。
「子どもの頃、YouTubeを親によく見せられましてね」
「あー、うちもそうでした」
「YouTubeってまだあるのかな」
「上の世代はまだ見ているみたいだけど」
「ぼくは、GAL男宣言とかいう変な動画が好きでね」
「えっ、それってもしかして、きのこを食べるやつ?」
「そうそう」
そんな会話をきっかけに、息子はその人と親しくなり、やがて運命を共にすることになる。
彼の傍らに私の姿はもうない。
息子は息子の人生を歩むのだ。
そのとき私は、何をしているか?
私は静かにYouTubeを見るのだ。
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