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片道千円の外国旅行 (ショプロン)

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 ウィーンに来て驚いたことはいくつかある。 外国という概念の卑近さ もそのひとつだ。  思えば、東京でもバークレーでも、「外国は遠い」というのは当然の前提であった。心理的にも実務的にも、それは疑問をさしはさむ余地のないことであった。  ところがEU域内では、査証どころかパスポートの提示も必要ない。シェンゲン協定という言葉だけは知っていたが、その「不必要感」をビビッドに体験してみると、やはりこれは大したものだと思う。いまさらだけど、すごいな、EU。  1月の初旬に、家族でショプロンに出かけた。  ショプロンと聞いて、すぐに場所がわかる人は少ないだろう。もちろん私も知らなかった。ショプロンは、ハンガリーの古都である。人口は6万人弱。日本でいえば新潟県村上市、埼玉県秩父市くらいの規模だ。  いま私の手元に、ウィーン日本人学校の図書室で借りた「中欧」という本がある。ショプロンについても、「歴史的遺跡の豊富な観光都市」として短く紹介されている。  (ショプロンは、)ローマ時代に通商の街として栄えた。民族大移動の際、瓦礫と化した街に、建国時、ハンガリー人の定住が始まる。トルコ占領時代も、さほど被害を蒙らず、中世の街並みが残った。早くから手工業者、商人、市民層が形成され、芸術、文化を愛好する都市に発展した。  1910年の統計を見ると、ドイツ語住民の方がハンガリー語住民よりも多い。だが、21年の住民投票でハンガリーへの帰属を決めた。 引用:沼野充義監修(1996)「読んで旅する世界の歴史と文化 中欧」  新潮社   p.131  この投票は、第一次世界大戦に敗れた オーストリア=ハンガリー二重帝国 の崩壊を受けて、国境沿いにあるショプロンがオーストリアとハンガリーのどちら側につくかを迫られたものという。両親の離婚が決まって、父親につくか母親につくかを選ばされる子どものような状況だろうか。  地図を見ると、ショプロンはオーストリアに三方を囲まれている。オーストリアを海に見立てれば、ほとんど半島のような場所である(その奇妙な立地は、のちに 「ベルリンの壁崩壊」の契機をつくることにもなる )。  そんなショプロンの住民たちが、あえてハンガリーへの帰属を決めたのは、オーストリア(ハプスブルク家)憎しの感情ゆえか、それともハンガリー

行き先を決めずに電車に乗る(ウィーン近郊)

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 ①部屋遊びに飽きた子どもたちが大騒ぎする。②奥さんの疲労が臨界点に達する。③私の逃避的外出願望が高まりを見せる。この3つの条件が揃ったとき(わりとすぐ揃う)、私は子どもたちを連れて電車に乗り込む。  まず向かうのはウィーン中央駅だ。日本でいう東京駅のような位置づけの駅で、ここからならオーストリア国内、いや近隣国も含め、大体どこにでも行けてしまう。  中央駅に着いた子どもたちと私は、そこで見た電光掲示板だけを頼りに、次に出発する電車に乗ってしまう。地図は見ない。目的地すら決めない。行き先を電車に委ねていくスタイル、というとクールな感じだが、要するにいきあたりばったりということだ。 ウィーン中央駅(Wien Hauptbahnhof)  荷物もほとんど持っていかない。子ども用に水筒、クッキー、おむつを1,2枚。ときどきiPadとキックボード(インターンの学生から25ユーロで買った)を持っていくこともあるが、基本的にはこれだけだ。すかすかのリュックサックを背負って、幼児と手をつないでいる。そんな坊主頭のアジア人をウィーンで見かけたら、それはたぶん私である。  この旅のよいところは、子どもたちの満足がほぼ100%確約されていることだ。なにしろ子どもたちは電車に乗るだけで嬉しいのだ。「手段の目的化」とは悪い意味で使われがちな言葉だが、ここでは何の問題もない。手段の目的化、大いに歓迎なのである。  もうひとつの利点は、ほとんどお金がかからないことだ。オーストリア国鉄ÖBBは6歳未満なら無料だし、私はウィーン近郊で通用する 年間パスポート(Jahreskarte) を持っているので、よほどの遠出でなければ交通費はゼロ。あとはせいぜい、出先で追加調達するクッキー代くらいのものである。 ゆとりのあるシートピッチ。日本の電車と比べても遜色ない内装だ 何もない町 電車に乗り込んで一息ついたところで、ようやく行き先について考える。まずは電車の終着駅を確認し、その駅がウィーンから見てどの方角にあるか、車内の路線図で探し出す。最近は相場観が掴めてきたので、すぐに見つけられるようになった。  あとはもう思いつきである。たとえばある日は、アハウ(Achau)という駅の、その気の抜けたような響きが気に入ったので、そこで降りることにした。「今

マルタ騎士団という準国家

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  前回 、息子が「オバケのQ太郎」の背景に描かれた電信柱を、教会の十字架と誤認したことについて書いた。  おそらくご存知のように、ウィーンには、キリスト教の教会がたくさんある。石を投げれば教会にあたると言ってよいほどだ(実際には投げないけれど)。  我が家の徒歩圏内にも、ペーター教会やアンナ教会など、「地球の歩き方」にも載るような有名な教会がいくつもある。そうした中で、私と妻子がもっとも親しく感じているのは、自宅の隣にある――より正確に言えば、中庭の斜向かいにある――マルタ騎士団教会だ。 マルタ騎士団教会(Malteserkirche)の入り口  マルタ騎士団教会は、その名のとおり、マルタ騎士団が運営する教会である。  マルタ騎士団のことは知っていますか? 私はたまたま知っていた。といっても、その起源を11世紀に遡る歴史について知悉していたわけでは全然ない。「領土を持たない国家」という珍しさに心惹かれた遠い記憶が、頭の片隅に残っていただけだ。  あれは中学生の頃だったか。千葉県習志野市の図書館で読んだ雑誌か何かに、「君にもつくれる独立国家」とかいう怪しげな記事があって(いかにも中学生好みの記事だ)、そこでマルタ騎士団が紹介されていたのだ。あれから約20年後、まさかその教会の隣に住むことになろうとは。人生はまったくわからないものである。   ベランダから臨むマルタ騎士団教会 マルタ騎士団の誕生 マルタ騎士団の起源は、十字軍時代(Crusade-era)の1048年、アマルフィ共和国の商人がエルサレムに拵えた病院にある。宿舎も兼ねたこの施設は、主に聖地巡礼者を対象としていたが、カトリック教徒に限らず、ユダヤ教徒やイスラム教徒も受け入れていたという。すごいですね。十字軍というと、私はどうしても「正義の名の下に正当化された不寛容と暴力」というイメージを抱いてしまうのだけれど、少なくとも黎明期の騎士団(当時の名称は聖ヨハネ騎士団)はそうではなかったのだ。  けれども、1291年のアッコン陥落によって聖地(Holy Land)がイスラム勢力の手に渡ると、世界はいよいよ血生臭くなる。彼らの役割も、慈善活動から軍事活動へと、ラディカルにシフトしてゆくことになる。実際、この頃は海賊まがいの行為で生計を立てていたようだ

Qちゃんの効用

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 バークレーで生まれウィーンに暮らす4歳の息子は、このままだ と日本語の読み書きを覚えない。そこで役に立っているの が「オバケのQ太郎」である。本当は自分が読むために持って きたのだけれど、息子はすっかりQちゃんの虜になった。  でも読ませているうち、いくつか息子が誤解している箇 所に気がついた。たとえば電信柱。「Qちゃんの街には 教会がいっぱいあるんだねぇ」と言うので何かと思 ったら、電信柱を教会の十字架と解釈していたのだ。 そういえばウィーンに電信柱ってほとんどない。電線の多くは地中化されてたり、建物の間に結びつけられていたりするからだ。  とはいえ全体としては通じる部分の方がずっと多い。雪だ るま、おばけ大会、ピクニック。ご飯を食べ過ぎて苦しく なるお腹。お母さんに怒られてもずっと遊んでいたいとい う気持ち。  1966年10月号の雑誌「よいこ」に載った6ページ1 0コマの漫画は、いま、2018年1月の4歳男児に、 500回くらい繰り返し読まれている。

子連れの旅には苦労が多い

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 子どもを伴う旅は、大人だけの旅(一人旅を含む)とは、かなり色彩の異なるものである。はっきり言えば、苦労が多いのだ。  苦労が多いのは、仕事での出張もそうだろう。日中はオフィスや会議室に篭りきりで、ほとんど外出できない出張だって珍しくない。  でも、同行した上司が、出先でいきなり大便を漏らすということはない。大事な会食中に「早く帰ろうよ!」と絶叫したり、電車の発着アナウンスの声帯模写をはじめたりすることもないはずだ。  「子どもとは酔っぱらいである」とは、たしか中島らもの言葉であった。どちらも無軌道なふるまいを見せるという本質を捉えた至言である。これに倣うなら、子連れの旅とは、すなわち、朝から晩までずうっと酔っぱらっている人と一緒に旅をすることなのだ。 子連れ旅行の変遷 そのような子連れの旅を、妻と私は、これまでどれだけ経験してきたか。この稿を書くにあたって、ふと思い返してみた。  バークレー ⇒ 東京 ⇒ ウィーンという住居の変遷を軸として、旅行をした時期、目的地、移動手段及び時間を列挙すると、以下のとおりである。 <バークレー> (2013年5月に男児出生) 2013年  6月 オアフ島 (飛行機、6時間) 2014年  4月 シカゴ (電車、51時間) <東京> 2015年  8月 神津島 (船、3時間) 2015年  9月 松島 (電車、2時間半) 2015年12月 伊豆大島 (船、3時間) (2016年4月に新たな男児出生) 2016年  8月 八丈島 (飛行機、1時間) 2016年10月 沖縄本島 (飛行機、3時間) 2016年12月 台湾 (飛行機、4時間) 2017年  2月 沖縄本島 (飛行機、3時間) 2017年  3月 香港 (飛行機、5時間) 2017年  4月 箱根 (バス、1時間) 2017年  5月 箱根 (バス、1時間) <ウィーン> 2017年  9月 ザルツブルク (電車、3時間) 2017年10月 ブラチスラバ (電車、1時間) 2017年12月 ヴェネツィア (飛行機、1時間) 2018年  1月 ショプロン (電車、1時間半)  こうして並べてみてわかるのは、やたらと島に行っているということだ。松島も台湾も香港もヴェネツィアも、いちおう島の

ウィーンで家を探す

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 海外赴任の準備として、まず大事なことは「家探し」だろう。雨露をしのぐ屋根と、温かい布団。この2つがあれば、明日への活路も拓けてくる。台所と手洗所があれば、さらによい。  ところが、私は、この段階でいきなり躓いた。というのも、正式な赴任日が決まったのが、わずか2週間前だったからだ。  「うーん、さすがに時間が足りません。赴任日を少し遅らせてもらえますか」と、お願いする選択肢だって、もちろんあった。  しかし、時期は7月。バカンスに入る直前のタイミングだ(欧州では1ヶ月以上の夏季休暇を取ることは珍しくない)。ここで自ら手続き繰延べを申し出るのは、どことなく「見逃し三振 ⇒ ゲームセット」の流れを連想させるものがある。心中に暗雲が広がってゆくものがある。  そうして私は、ゲームセットを免れるべく、イスタンブール経由のトルコ航空、合計19時間弱のフライトにて、妻子を連れて、あるいは妻子に連れられて、初夏のウィーンに到着したのであった。 (参考:オーストリア航空は、2018年5月15日に成田~ウィーンの直行便を再開予定)  到着後の仮宿は、 バークレー の時と同じく、Airbnbで探した。いま調べてみたら、交渉成立したのは宿泊の4日前。かなり危ない橋を渡っていたようだ。  メッセージのログを見ると、「飛行機を降りました。そちらに向かいます。50分後に会えますか」と、家主に送信している。それも空港の無料WiFiを使って。なかなかにアドリブ感あふれる展開である。  でも結論を言えば、この宿はとてもよかった。45平米の2LDK、それで1泊7,500円だ。ここに4人で住んでいたので、1人あたり1,875円ということになる(すぐに割り算をする貧乏性は、自分でも直したいと思っている)。  国鉄ÖBBのTraisengasse駅から徒歩5分。中心部から少し離れているけれど、アクセスは悪くない。というか、そもそもウィーンは小さな街だし、交通網の成熟ぶりもめざましいので、ほとんど不便を感じないのだ。電車、バス、地下鉄、トラムが縦横無尽に張り巡らされていて、路線図マニアにはたまらない都市だろう。  とはいえ、仮宿は仮宿だ。なるべく早めに長住まいの家を探して、手続き(船便の受取りとか、銀行口座の開設とか)を進めなければならない。  ウ

はじめに

 このブログは、オーストリア・ウィーンの国際機関に勤務する35歳(2018年1月現在)の平凡な日本人男性が、国際交渉の舞台裏を赤裸々に吐露する・・・ことはせずに、35歳の奥さんと、4歳と1歳の息子との暮らしを綴るものです。 「ウィーン滞在記」と「子連れ旅行記」の、いわば ハイブリッドのような内容になる予定です。  このブログは、私が国際機関を辞して日本に帰国したときに終わります。  このブログを、若くして向こう側に行ってしまった私の友人、それから、もっと若くして向こう側に行ってしまった私の最初の息子に捧げます。