マルタ騎士団という準国家
前回、息子が「オバケのQ太郎」の背景に描かれた電信柱を、教会の十字架と誤認したことについて書いた。
おそらくご存知のように、ウィーンには、キリスト教の教会がたくさんある。石を投げれば教会にあたると言ってよいほどだ(実際には投げないけれど)。
我が家の徒歩圏内にも、ペーター教会やアンナ教会など、「地球の歩き方」にも載るような有名な教会がいくつもある。そうした中で、私と妻子がもっとも親しく感じているのは、自宅の隣にある――より正確に言えば、中庭の斜向かいにある――マルタ騎士団教会だ。
マルタ騎士団教会は、その名のとおり、マルタ騎士団が運営する教会である。
マルタ騎士団のことは知っていますか? 私はたまたま知っていた。といっても、その起源を11世紀に遡る歴史について知悉していたわけでは全然ない。「領土を持たない国家」という珍しさに心惹かれた遠い記憶が、頭の片隅に残っていただけだ。
あれは中学生の頃だったか。千葉県習志野市の図書館で読んだ雑誌か何かに、「君にもつくれる独立国家」とかいう怪しげな記事があって(いかにも中学生好みの記事だ)、そこでマルタ騎士団が紹介されていたのだ。あれから約20年後、まさかその教会の隣に住むことになろうとは。人生はまったくわからないものである。
けれども、1291年のアッコン陥落によって聖地(Holy Land)がイスラム勢力の手に渡ると、世界はいよいよ血生臭くなる。彼らの役割も、慈善活動から軍事活動へと、ラディカルにシフトしてゆくことになる。実際、この頃は海賊まがいの行為で生計を立てていたようだ。
アッコンを追われ、キプロス島を経てロードス島に拠点を移した騎士団だったが、1523年にはロードス島をオスマン帝国軍に包囲され、6ヶ月の篭城の末に陥落。よるべなく地中海の島々をさまよう騎士団は、ある種の政治的駆け引きの結果として、マルタ島の防衛という新たなミッションを与えられる。1530年、マルタ騎士団の誕生である。
しかし、盛者必衰に例外はない。爾後、キリスト教圏の内輪揉めが前景化するにつれて、マルタ騎士団の軍事的アイデンティティは次第にしぼんでゆく。そして1798年、ナポレオンがエジプト遠征の一環でマルタ島を占拠すると、マルタ騎士団の領土は、ついに世界のどこにもなくなってしまうのである。(このときマルタ騎士団は抵抗すらできなかった。なぜなら騎士団には「キリスト教徒と戦うべからず」という掟があったからだ)
イタリア各地を放浪した後、1834年にローマで治外法権付きの敷地(ただし領土ではない)を与えられたマルタ騎士団は、設立時の精神に立ち返るかのように、再び医療活動・慈善活動をミッションの主軸に据えるようになる。前世紀の二度の世界大戦でも戦傷者たちの救護に奔走し、今ではボランティア含め約10万人のメンバーを擁するマルタ騎士団は、宗派を問わず、人種を問わず、病める者たち、貧しき者たちのために精力的な活動を続けているのである。
私にはわからない。わからないけれど、ひとつ言えることは、私の家族はマルタ騎士団教会に素朴な好意を抱いているということだ。
下の息子は、鐘の音で目覚めて「Church!」と言う。
(これは実に彼がはじめて覚えた英単語である)
上の息子は、マルタ騎士団の紋章を折り紙でつくる。
(蟹のはさみに見立てて「かにチャーチ」と呼ぶ)
奥さんは、しばしば教会の入り口で蠟燭を供える。
(彼女は神道だが、「宗教の垣根は人間がつくったものに過ぎない」と考えている)
そして私は、エルサレムの病院からローマの騎士団本部に至るまでの、あるいは千葉県習志野市の図書館からウィーンの騎士団教会に至るまでの、それぞれに奇妙な道のりに瞑目しつつ、この文章を書いている。
(2018年7月30日追記)
その後、マルタ共和国に旅行する機会を得て、騎士団長の宮殿などを訪れた。マルタ紋章のTシャツも買って、息子はそれを好んで着ている。
我が家とマルタの縁は、いよいよ深まる一方だ。
おそらくご存知のように、ウィーンには、キリスト教の教会がたくさんある。石を投げれば教会にあたると言ってよいほどだ(実際には投げないけれど)。
我が家の徒歩圏内にも、ペーター教会やアンナ教会など、「地球の歩き方」にも載るような有名な教会がいくつもある。そうした中で、私と妻子がもっとも親しく感じているのは、自宅の隣にある――より正確に言えば、中庭の斜向かいにある――マルタ騎士団教会だ。
マルタ騎士団教会(Malteserkirche)の入り口 |
マルタ騎士団教会は、その名のとおり、マルタ騎士団が運営する教会である。
マルタ騎士団のことは知っていますか? 私はたまたま知っていた。といっても、その起源を11世紀に遡る歴史について知悉していたわけでは全然ない。「領土を持たない国家」という珍しさに心惹かれた遠い記憶が、頭の片隅に残っていただけだ。
あれは中学生の頃だったか。千葉県習志野市の図書館で読んだ雑誌か何かに、「君にもつくれる独立国家」とかいう怪しげな記事があって(いかにも中学生好みの記事だ)、そこでマルタ騎士団が紹介されていたのだ。あれから約20年後、まさかその教会の隣に住むことになろうとは。人生はまったくわからないものである。
ベランダから臨むマルタ騎士団教会 |
マルタ騎士団の誕生
マルタ騎士団の起源は、十字軍時代(Crusade-era)の1048年、アマルフィ共和国の商人がエルサレムに拵えた病院にある。宿舎も兼ねたこの施設は、主に聖地巡礼者を対象としていたが、カトリック教徒に限らず、ユダヤ教徒やイスラム教徒も受け入れていたという。すごいですね。十字軍というと、私はどうしても「正義の名の下に正当化された不寛容と暴力」というイメージを抱いてしまうのだけれど、少なくとも黎明期の騎士団(当時の名称は聖ヨハネ騎士団)はそうではなかったのだ。けれども、1291年のアッコン陥落によって聖地(Holy Land)がイスラム勢力の手に渡ると、世界はいよいよ血生臭くなる。彼らの役割も、慈善活動から軍事活動へと、ラディカルにシフトしてゆくことになる。実際、この頃は海賊まがいの行為で生計を立てていたようだ。
アッコンを追われ、キプロス島を経てロードス島に拠点を移した騎士団だったが、1523年にはロードス島をオスマン帝国軍に包囲され、6ヶ月の篭城の末に陥落。よるべなく地中海の島々をさまよう騎士団は、ある種の政治的駆け引きの結果として、マルタ島の防衛という新たなミッションを与えられる。1530年、マルタ騎士団の誕生である。
マルタ騎士団の衰亡
その軍事的役割にのみスポットライトを当てるなら、マルタ騎士団の黄金時代は16世紀後半ということになるだろう。1565年のマルタ包囲戦にて、オスマン帝国軍をぎりぎりのところで撃退。さらにその6年後には、レパントの海戦の勝利に大きく貢献。この頃のマルタ騎士団は、まさに歴史のティッピング・ポイント(転換点)に深く主体的に関わる存在であった。しかし、盛者必衰に例外はない。爾後、キリスト教圏の内輪揉めが前景化するにつれて、マルタ騎士団の軍事的アイデンティティは次第にしぼんでゆく。そして1798年、ナポレオンがエジプト遠征の一環でマルタ島を占拠すると、マルタ騎士団の領土は、ついに世界のどこにもなくなってしまうのである。(このときマルタ騎士団は抵抗すらできなかった。なぜなら騎士団には「キリスト教徒と戦うべからず」という掟があったからだ)
イタリア各地を放浪した後、1834年にローマで治外法権付きの敷地(ただし領土ではない)を与えられたマルタ騎士団は、設立時の精神に立ち返るかのように、再び医療活動・慈善活動をミッションの主軸に据えるようになる。前世紀の二度の世界大戦でも戦傷者たちの救護に奔走し、今ではボランティア含め約10万人のメンバーを擁するマルタ騎士団は、宗派を問わず、人種を問わず、病める者たち、貧しき者たちのために精力的な活動を続けているのである。
マルタ騎士団という準国家
政府機関があり、107ヵ国と外交関係を結び、独自のパスポートも発行しているのに(もっとも、英「Independent」紙によれば、マルタ騎士団のパスポート所持者は世界に約500人しかいないらしいけれど)、肝心の領土を持たないマルタ騎士団。それは国家なのか、それとも国家に似た別の何かなのか。私にはわからない。わからないけれど、ひとつ言えることは、私の家族はマルタ騎士団教会に素朴な好意を抱いているということだ。
下の息子は、鐘の音で目覚めて「Church!」と言う。
(これは実に彼がはじめて覚えた英単語である)
上の息子は、マルタ騎士団の紋章を折り紙でつくる。
(蟹のはさみに見立てて「かにチャーチ」と呼ぶ)
奥さんは、しばしば教会の入り口で蠟燭を供える。
(彼女は神道だが、「宗教の垣根は人間がつくったものに過ぎない」と考えている)
そして私は、エルサレムの病院からローマの騎士団本部に至るまでの、あるいは千葉県習志野市の図書館からウィーンの騎士団教会に至るまでの、それぞれに奇妙な道のりに瞑目しつつ、この文章を書いている。
(2018年7月30日追記)
その後、マルタ共和国に旅行する機会を得て、騎士団長の宮殿などを訪れた。マルタ紋章のTシャツも買って、息子はそれを好んで着ている。
我が家とマルタの縁は、いよいよ深まる一方だ。
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