子連れの旅には苦労が多い

 子どもを伴う旅は、大人だけの旅(一人旅を含む)とは、かなり色彩の異なるものである。はっきり言えば、苦労が多いのだ。

 苦労が多いのは、仕事での出張もそうだろう。日中はオフィスや会議室に篭りきりで、ほとんど外出できない出張だって珍しくない。

 でも、同行した上司が、出先でいきなり大便を漏らすということはない。大事な会食中に「早く帰ろうよ!」と絶叫したり、電車の発着アナウンスの声帯模写をはじめたりすることもないはずだ。

 「子どもとは酔っぱらいである」とは、たしか中島らもの言葉であった。どちらも無軌道なふるまいを見せるという本質を捉えた至言である。これに倣うなら、子連れの旅とは、すなわち、朝から晩までずうっと酔っぱらっている人と一緒に旅をすることなのだ。


ウィーン近郊の小さな町


子連れ旅行の変遷

そのような子連れの旅を、妻と私は、これまでどれだけ経験してきたか。この稿を書くにあたって、ふと思い返してみた。

 バークレー ⇒ 東京 ⇒ ウィーンという住居の変遷を軸として、旅行をした時期、目的地、移動手段及び時間を列挙すると、以下のとおりである。

<バークレー>
(2013年5月に男児出生)
2013年  6月 オアフ島 (飛行機、6時間)
2014年  4月 シカゴ (電車、51時間)

<東京>
2015年  8月 神津島 (船、3時間)
2015年  9月 松島 (電車、2時間半)
2015年12月 伊豆大島 (船、3時間)
(2016年4月に新たな男児出生)
2016年  8月 八丈島 (飛行機、1時間)
2016年10月 沖縄本島 (飛行機、3時間)
2016年12月 台湾 (飛行機、4時間)
2017年  2月 沖縄本島 (飛行機、3時間)
2017年  3月 香港 (飛行機、5時間)
2017年  4月 箱根 (バス、1時間)
2017年  5月 箱根 (バス、1時間)

<ウィーン>
2017年  9月 ザルツブルク (電車、3時間)
2017年10月 ブラチスラバ (電車、1時間)
2017年12月 ヴェネツィア (飛行機、1時間)
2018年  1月 ショプロン (電車、1時間半)

 こうして並べてみてわかるのは、やたらと島に行っているということだ。松島も台湾も香港もヴェネツィアも、いちおう島のカテゴリに入るだろう。島々は例外なく、それぞれの本土(Mainland)とは異なる固有のシグネチャーを持っている。そういうところが私は好きだ。

 私の島好きは、おそらく幼少時に小笠原諸島の母島に住んでいたことに起因するのだが、こうも偏っていたとは思わなかった。このことは、わが子の人格形成に、何か影響を及ぼしているだろうか? それはまだわからない。ひとつ言えるのは、どこに行っても、息子の最大の関心事は乗り物だということだ。

 たとえば、香港に行ったとき。私の子ども(当時3歳)は、いわゆる観光スポットには目もくれず、その情熱はもっぱら「地下鉄のホームドアが開閉するさま」に注がれた。朝起きて、ホームドア。寝る前に、ホームドア。帰国後もしばらくは、積み木でつくったホームドアの開け閉めに従事する日々であった。「だったら日本の地下鉄でよかったんじゃないか」というのは、もちろん大人の勝手な理屈である。


香港(Hong Kong)の鉄道駅のホーム
香港の電車。この駅にはホームドアはなく、息子は不満げであった


 しかし実際のところ、さんざん苦労して「ホームドアの開け閉め」に終わるなら、子ども(特に幼児・乳児)を連れて遠出をすることの意味は、どこにあるのだろうか。

 「意味などない。行きたければ行けばいい。行きたくなければ行かなければいい」というのはクールな態度だ。あるいはそれが正解なのかもしれない。でもここで少し、子連れの旅のPros/Cons(良い面と悪い面)について考えてみたい。

 まずは、Cons(悪い面、というか大変なところ)について。

Cons(1) 自由度が減る

ポール・セローの「ダーク・スター・サファリ」は、ユーモアとタフネスが同居するアフリカ旅行記の傑作だが、これを子連れで敢行するのは不可能に近い。カイロからケープタウンへの陸路の旅は、やはり一人旅でこそ味わい深いものだろう。
 とまあ、そこまで極端な例でなくとも、古い劇場で非日常の愉しみに耽ったり、静かなバーでひととき酔夢の時間を過ごしたりすることも、子連れではどうにも難しい。
 すると、博物館あたりが無難な選択肢ということになる。しかし、ここで個人的な嗜好を言えば、ヨーロッパ各地に散在する、暴力的・性的にぶっとんだアウトサイダーな博物館を訪ねたいのだが(都築響一の超絶名著「珍世界紀行」のヨーロッパ編を再読したくなり、わざわざ航空便で取り寄せたくらいだ)、そこに幼児を連れていくことはさすがにできない。
 このように、子連れの旅には、行き先が限定されるという難点がある。

Cons(2) 出費が増える

子連れの旅は、概してお金がかかるものだ。フライト代・ホテル代などの必要経費に加えて、予期せぬトラブルによる出費も少なくない。
 たとえば、ヴェネツィアはムラーノ島にて、喜びを全身で表現してゆくスタイルの息子は、勢い余ってガラス工芸品店の陳列棚に激突。300ユーロもするネックレスを割ってしまった。言うまでもなく、陳謝 ⇒ 弁償の流れである。
 このほか、往来者の心を奪うために陳列されたアイスクリームやチョコマフィンの罠にまんまと引っかかり、「おねだりモード」に突入するケースもある。子連れの旅は、散財の連続と言ってよい。

Cons(3) リスクが増える

子どもとは、前触れなく病気になる生き物だ。息子は幸いにして、これまで旅行中に病を得たことはないが、いつそうなるともわからない。訪問先の土地固有の悪い病気にかかる可能性だってゼロではない。
 より深刻なリスクは、誘拐である。あまり考えたくないけれど、しかし考えなければならないのは、「ある種の世界において、子どもは商品である」ということだ。
 ことにわが子は、新しい風景に接するなどして興奮がピークに達すると(これがまたすぐにピークに達する)、自律を失った電動コマのように無辺際に疾走してゆく傾向にある。これは実に危険で、やめさせたいのだが、息子の反射神経と反復性(執拗性)には他を圧するものがあり、なかなかに制御しきれない。怒号と号泣が飛びかうゆえんである。


ウィーン近郊にあるブルック・デ・ライタの街並み


 ここまで、子連れ旅行のネガティブな面を列挙してきた。しかし、"Every cloud has a silver lining"という言葉があるように、どんなものにも何かしらポジティブな面がある。それはたとえば、こんなところだ。

Pros(1) 偶発性が増える

子どもを伴う旅は、苦労の多いぶん、「予期せぬ良きこと」に遭遇する確率も高くなるように思う。
 たとえば、無心に走り回る子どもを追っているうち、思いがけず路地裏の渋い店を発見したりする。ガイドブックの類には載らないが、個人的なツボをぐいぐい押してくるような店というのは、大抵そのようにして見つかるものである。
 通りすがりの人から声をかけられることもしばしばだ。「かわいい子だね」「何歳?」「どこから来たの?」「私の孫はねぇ・・・」といった按配。話が弾んで、第二次世界大戦後の貴重な個人史が繙かれることもあった。
 子どもを帯同していなければ、そのようなことは起こらなった・・・とまでは断言できないけれど、その蓋然性はずいぶん低かったに違いない。

Pros(2) 思い出の濃度が高まる

子連れの旅には、特有の記憶の残り方がある。これはおそらく、前項の「偶発性が増える」ことにも関係している。
 つまり、大人だけの旅は、目的地(例:青森)と、そこでしたいこと(例:ねぷた祭りへの参加)が、多くの場合はっきりしていて、また実際の「試合運び」も大抵そのように進むのに対し、子連れの旅となると、その「試合運び」が往々にして脱線してゆく。当初は『A』という計画だったのが、子どもの不規則な言動により『A´』への修正を余儀なくされ、さらに当日の朝のトラブルで『A´´』となり、最終的にはなぜか『M』となる。一日の終わりに、「どうしてこうなった」となるケースが、むしろ通例ではないだろうか。
 計画通りに行かないという意味では、これは大きなストレスである。しかし奇妙なことに、然るべき時間が経過して、静かな微笑みとともに思い返されるのは、きまってそのような脱線的な出来事なのだ。

Pros(3) 日常からの脱却感が高まる

私のような半端者が述べるのはいかにも僭越だが、子育ては、とにかく疲れるものである。それも、どんどん閉塞に向かってゆくような疲れ方だ。少なくとも私には、育児よりも仕事の方がずっと楽である。
 終わりの見えない勃発的なタスクが、夜もなく朝もなく降ってくる、そんな苦吟の日常に変化をもたらすという意味で、旅行はひとつのスパイスである。句点も読点もない文章が延々と続いているところへ、ふと改行が入るような閃きがある。
 そうした意味で、旅から得られる効用は、子連れの場合により顕著に、よりラディカルになるように思う。


子どもが積み木で作ったヴェネツィアの船着場
作品名:ヴェネツィアの船着場 / 製作年:2018年 / 技法・素材:積み木

結論

子連れの旅とは、結局のところ、「苦労が多い」という一点に帰着するのかもしれない。縷々述べたPros/Consの各項も、苦労の諸要素を分解して、それらをパラフレーズしただけなのかもしれない。

 しかし考えてみれば、旅というものは、しなくてもよい苦労をわざわざ背負い込み、日常と異なる情景に接することで、ずっと後になってふと思い出される記憶を蓄積してゆく行為ではなかったか。とすれば、子どもとは、旅本来が持つPros/Consの双方を増幅させる、いわばオペアンプのようなものではないだろうか。

 未知なる世界が、我々を招く。
 さあ、次はどこまで行こうか。


コメント

PW1100G-JM さんのコメント…
ひとつSuggestionいたします。

子連れの旅で、よければ旅先でお子さんとなんでもいいので、「親子の思い出宝物」を隠してこられてはいかがでしょうか? 私の家庭もそうですが、恐らく思い出として薄っすらと残っている程度かと思います。大きくなるにつれ、風化していき、写真を見た際「こんなところにいったんだね」程度で終わってしまう可能性が「大」かと。そこで、私の家庭では年1-2回の機会しかありませんが、旅先に何か思い出となるものを置いて来ています。そして子供たちが大きくなった時、そしてその場所を再訪した際に、それを見つけてもらおうというのが考えです。土に埋めてもいいですし、カフェや土産屋、レストランにおいてもらっていてもいいです。

ベニスに行かれたとブログにありましたが、ムラーノ島に一軒のカフェがあり、そこにはさまざまな国から来た人達の思い出Goodsが置かれてました。それをヒントに、以降、上記のようなことをしています。
Satoru さんの投稿…
Suggestionありがとうございます。

「親子の思い出宝物」ですか。それは興味深いアイデアですね。そういう発想自体、私の今までの人生にはまったくありませんでした。

でもカフェやレストランはいざしらず、土に埋めてしまうとなると、後で探せなくなるような気もしますが、それもまた一興かもですね。

また、何を置いて行くべきかというのも、考えてみるとなかなか悩ましく、面白いです。廃棄物みたいなものを置いたら嫌がられること必定ですが、子どもたちの思い入れが強いアイテムを置くのも些かリスキーな気がする(帰った後で「やっぱりまだ使いたい!」と言われそう)。

ちょっと考えてみようと思います。