くらげに刺され、戦没者を追悼する(マルタ)
いま、仕事でお世話になっているマルタさんが2人いる。
同じ部署で働くポーランド人のMartaさんと、日本で働く日本人のMarutaさんだ。
そして私の住居は、なにをかくそう、マルタ騎士団教会の隣にある。
マルタ、マルタ、マルタ。
マルタのスリーカード。マルタの三暗刻である。
ここまで来たら、もうマルタ(Malta)に行かない手はないだろう。
マルタのフォーカード。マルタの四暗刻を、ここに完成させるのだ。
マルタはEU加盟国なのだが、石造りの住宅が並ぶ風景を一枚切り取ってみれば、それはもうヨーロッパというよりアラブに近い。これはたぶん、9~11世紀にアラブ勢力の支配下だった時代の名残だろう。
ところがマルタは、いまでは人口の98%がキリスト教徒である(出所:Lonely Planet Malta & Gozo)。その信仰も敬虔で、ヨーロッパ諸国のあちこちでみられるヌーディストビーチも、マルタでは全面的に禁止されている。
いかにもアラブ風の家の玄関に、カトリックの十字架が飾られている。そんなマルタの住宅街を散歩するのは、なかなか奇妙で新鮮な体験であった。
(もっとも、「アラブ=イスラム教」という理解は必ずしも正しくない。たとえば私の同僚のヨルダン人は、アラビア語を話すキリスト教徒だ)
滞在初日の夕方、ダダダダッ…ダダダダダダッ…という炸裂音が轟いた。何か戦争でもはじまったのかとベランダに駆け寄ったが、特に変化は見られない。道行く人も平然としている。戦時下の日記などを読むと「敵襲に慣れて普段どおり生活する人たち」がしばしば出てくるけれど、ちょうどそんな感じである。
次の日にも、その次の日にも、同じことがあった。けれども轟音の正体は結局わからない。最初はヴァレッタで騎士団が空砲を撃つ定例パレードかと思ったが、それにしては音が近すぎるし、だいいち時間帯が合わない。
いくつか調べて、これは聖ペテロと聖パウロの祝日にちなんだ花火大会ではないか、という仮説が立てられた。ホテルから海が見えないので、花火の音だけが聞こえてくるのだ。だが、このダダダダッ…ダダダダダダッ…という緊迫した音は、花火というより、どちらかといえば陸上自衛隊の富士総合火力演習のそれに近い。
私はそのとき海岸まで足を運んで、自分の目で仮説の是非を確かめるべきだったのかもしれない。しかし私は浜辺に打ち上げられたビニール袋のようにくたくたに疲れていて、ほどなく眠りの底に沈んでしまった。そして次の日の夕方には、もう轟音は聞こえなかった。だから、このスリーマの炸裂音は、私の人生における小さな未解決の謎として残されている。
このとき、私は迂闊にもカンボジアで買ったTシャツを着ていた。私はこういう失敗をときどきやる(ウィーンで台湾の外交官一家と食事をしたとき、三菱重工で買った零式艦上戦闘機のおもちゃを慌てて隠した一幕もあった)。Tシャツはすぐに脱いだので、幸いマッサージのお姉さんの目には留まらなかった。
お姉さんはスマホの動画で、タイの洞窟の奥深くに閉じ込められた少年たちのニュースを、朝から晩まで追っているという。それから数日後に世界中で広く拡散された話を、私はここではじめて知った。
お姉さんの話は自らの身辺にも及んだ。曰く、マルタにはタイ人が600名ほど住んでいる。気候が似ているし、お金も稼ぎやすい。そしてなにより治安がよい。軍事クーデターの心配もない。英語さえ話せれば、タイ人にとっては極上の生活環境だ。
13年前まで、ある日本人男性と交際していた。結婚の直前まで行ったけど、いろいろな事情があって日本に入国できず、やがて破局した。だからもう日本語はほとんど忘れてしまった。「キモチイイ」という言葉だけは覚えてるけど(と彼女は笑う)。それからマルタに移住したのが、たしか11年前のこと。そうか、もうずいぶん昔のことになるんだね。
11年前といえば、私が奥さんと結婚して、墨田区錦糸町の安アパートに住みはじめた頃だ。それから「アメリカ ⇒ 日本 ⇒ オーストリア」という軌跡を描いて、いまこの瞬間にはマルタの地を踏んでいる。そこで「タイ ⇒ マルタ」のお姉さんと、1時間ぶん、40ユーロぶんの人生を共有している。
帰り際に次回の予約を入れた。その時間に行ってみると、お店のシャッターが下りていた。たぶん洞窟のニュースに夢中になって、予約の存在を忘れたのだろう。
私とお姉さんの人生の共有は、それで唐突に終わりになった。
今回我々が訪れたビーチは、以下の4カ所だ。
1. マルタ島の南東部にあるSt. Thomas Bay Beach
2. マルタ島のスリーマ近くにあるExiles Bay Beach
3. ゴゾ島の北部にあるRamla Bay Beach
4. コミノ島の西部にあるBlue Lagoon
これらのビーチには、すべて公共交通機関(バスとフェリー)で行った。それで正解だったと思う。21ユーロで7日間バス乗り放題のチケットはすこぶる便利だし、子どもたちもマルタ語の車内アナウンスをたのしんだ(5歳の息子は「Next Stop」を意味する「il-waqfa li jmiss」をいまでも連呼している)。レンタカーを使う選択肢も少しは考えたが、マルタの狭い道路を無事故でしのげる自信は私にはなかった。
なかんずく、ゴゾ島の入り組んだ迷路のような道は圧巻だった(実際に防衛戦略として有効であったに違いない)。それも曲がり角の連続する隘路のあちこちで路上駐車がされている。ほとんど嫌がらせみたいな状況なのだが、バスの運転手は右へ左へ、軽業師のようにすいすいとダンジョンを潜り抜けてゆく。この運転技術には敬服するほかはない。
なるほどここは海の透明度も抜群で、足首ほどの浅瀬にも小魚がたくさん泳いでいる。5歳の息子は釣りに憧れがあって(ゲーム「どうぶつの森 ポケットキャンプ」の影響だ)、拾った木の棒で魚を追いかけ、無邪気に水面を叩いていた。それは釣りと呼ぶにはあまりに原始的な行為だが、彼は飽きずにそうして魚と戯れていた。魚にとっては大迷惑だと思うけれど。
Blue Lagoonもよかったが、個人的にはゴゾ島のRamla Bay Beachがすばらしかった。若干辺鄙な場所にあるけれど、それだけに人が少なく、ビーチも広い。波はどこまでも穏やかで、砂粒はどこまでも足裏に優しい。海水浴には絶好のスポットである。
私はここで、子どもに水泳の初歩を教えるつもりだった。夏休みになれば幼稚園でプールの課外授業もはじまる。水を恐れない精神を育んでほしかった。
ところがこの日は、たまたまビーチにくらげが大量発生していた。カツオノエボシのような即死級のフォルムではなく、かさが少しく赤みを帯びた小型のくらげだ。見た目もどことなく可愛らしい。たぶん大丈夫だろう。問題のないことを示すために、私は勇んで泳いでみせた。
けれどもそれが問題だった。泳ぎはじめてすぐに、足首とふくらはぎに激痛が走る。あとで調べたところ、これはおそらくミズクラゲの一種で、まごうことなき毒くらげだった。周りにも刺された人びとが続出して、2歳の息子は「ちく、こわい」と怯えるようになってしまった(ちく=くらげの幼児語)。
教訓:くらげを見たら泳ぐのはやめよう。
齢70の騎士団長ヴァレットがオスマン帝国軍に立ち向かったマルタ包囲戦。その4世紀後に連合軍と独伊軍が激突した、もうひとつのマルタ包囲戦。歴史を仰ぎ見る者にとって、マルタの首都ヴァレッタは格別な輝きを放つ場所である。
しかしここで生じる問題は、幼児は通常、史跡や博物館の類にまったく興味がないことだ。彼らは「いま」この瞬間の連続に生きているので、先人の記録とか遺産とか、そうしたものに目を向ける必要がないのである。
そういうわけで、子どもたちの退屈を解消させるために、噴水遊びやアイスクリーム屋さんなどを挟みつつ、丸2日かけて、
聖ヨハネ准司教座聖堂(St John's Co-Cathedral)
騎士団長の宮殿(Grand Master’s Palace)
兵器庫(Palace Armoury)
おもちゃ博物館(Toy Museum)
国立戦争博物館(National War Museum)
などを巡った。これは本当に贅沢な、至福の時間であった。
地下階を含む3階建ての小さな建物に、古稀をゆうに超えた(とおぼしき)お爺ちゃんが、ひとりで店番をしている。館内には、この人のコレクションが所狭しと並べられているのだ。
お爺ちゃんの少年時代に重なるのだろう、1950年代のおもちゃが目立つ。ドイツ製、英国製のほか、日本製のおもちゃも結構な割合を占める。「日本のお客さんもよく来るよ」との由。
お爺ちゃんは気前よく展示品を実演してくれた。1912年にドイツで作られたぜんまい仕掛けの玩具がいまでも支障なく動いて、2016年生まれの息子をたのしませる。おもちゃの寿命は、ときに人間の寿命を超えるのだ。
入場料金は大人3ユーロ、子どもは無料。営業時間は午前10時から午後3時まで、正味5時間しか開いていない(夕方に訪れたら閉館だった)。そして土日は午後1時に閉まる。ここではお爺ちゃんの健康状態の維持がなにより大切なのである。
でもこういう老後っていいよな、と私はふと考える。生涯をかけて集めた趣味の品々を行きずりの人に見せて、喜んで帰ってもらう。1日に平均20人のお客さんが来ると仮定して、1か月あたり「3ユーロ × 20人 × 30日 = 1,800ユーロ」の収入。うーん、悪くない。俗人たる私は、つい心の中で掛け算をしてしまう。
この建物は、まず立地が最高である。マルタ騎士団が防衛線として築いた聖エルモ砦(Fort St. Elmo)の中にあるのだ。博物館に向かう道のりで、もう歴史の波濤をひしひしと感じる。彼らはオスマン帝国軍をここで迎え撃ったのだ。
時代ごとに分けられた部屋で、展示物に添えて短い映像が流されている。これがインフォグラフィック的というのか、現代的なセンスでわかりやすく編集されていて、すごくよかった。5歳児の心もしっかり捉えた、本気のわかりやすさであった。
「戦争」という概念をはじめて知った息子の口から、いろいろな質問が飛び出してくる。
「どうして人間は戦争をするの?」
「マルタに爆弾がたくさん落ちたら、マルタの人たちは死んじゃうの?」
「日本は今度いつ戦争をするの?」
ともだちが持っているものを欲しいと思う気持ち、それが抑えられなくなったときに戦争は起きるんだよ。
マルタに爆弾がたくさん落ちたら、マルタの人たちは死んじゃうよ。おとなも、子どもも、同じように死んでしまう。
日本が今度いつ戦争をするか、それは誰にもわからないんだ。
そういう場所が、マルタにはある。
暑い夏の日に、5歳の息子と手をつないで、私もそこに行ってみた。
カルカーラ海軍共同墓地(Kalkara Naval Cemetery)へは、ヴァレッタからバスを乗り継いで1時間と少し。94番のバス停「Marzebb」から歩いて3分ほどだ。
我々が来たときには、訪問者は誰もいなかった。受付の小屋も無人だ。でも机上のノートには、多くの日本人が記帳していた。
日本の慰霊碑は、共同墓地の奥にある。目を瞑って、両手を合わせる。71名の戦没者たち、そして遺された家族のことを想う。
5歳の息子は、「戦争」のほかに、「死」という概念もおぼろげに理解するようになった。帰り道、いくつかの無垢な質問に応える形で、息子と「死」について話す時間がある。
生まれたものは、やがては死んでしまうということ。マルタの路上で寝そべる猫も、海を漂うくらげも、パパも、ママも、いつかは必ず死んでしまうこと。きみにも本当はお兄ちゃんがいたけれど、パパとママに会う前に死んでしまったこと。だからきみが生まれたとき、パパは本当に本当にうれしかったんだよ、ということ。
墓地から坂道を下ったところにあるカルカーラのバス停で、ヴァレッタ行きの3番のバスを待つ。でもバスはなかなか来ない。もう20分以上も遅れている。今日は本当に暑い日だ。
水筒の水がなくなったので、パン屋さんでファンタレモンを買う。それから袋詰めの落花生を1ユーロで買って、息子と分け合う。
バス停のベンチで、ジュースを飲んで、落花生を食べる。そして目の前には海がある。外形的には千葉県館山市にいるのとあまり変わらないな、と唐突に思った。
同じ部署で働くポーランド人のMartaさんと、日本で働く日本人のMarutaさんだ。
そして私の住居は、なにをかくそう、マルタ騎士団教会の隣にある。
マルタ、マルタ、マルタ。
マルタのスリーカード。マルタの三暗刻である。
ここまで来たら、もうマルタ(Malta)に行かない手はないだろう。
マルタのフォーカード。マルタの四暗刻を、ここに完成させるのだ。
ウィーン~マルタは約2時間。マルタ航空で往復85ユーロ(税込)という安さ |
アラブとヨーロッパが混淆する場所
マルタに到着してまず驚いたのは、その街並みに漂う「アラブっぽさ」だ。マルタはEU加盟国なのだが、石造りの住宅が並ぶ風景を一枚切り取ってみれば、それはもうヨーロッパというよりアラブに近い。これはたぶん、9~11世紀にアラブ勢力の支配下だった時代の名残だろう。
ところがマルタは、いまでは人口の98%がキリスト教徒である(出所:Lonely Planet Malta & Gozo)。その信仰も敬虔で、ヨーロッパ諸国のあちこちでみられるヌーディストビーチも、マルタでは全面的に禁止されている。
いかにもアラブ風の家の玄関に、カトリックの十字架が飾られている。そんなマルタの住宅街を散歩するのは、なかなか奇妙で新鮮な体験であった。
(もっとも、「アラブ=イスラム教」という理解は必ずしも正しくない。たとえば私の同僚のヨルダン人は、アラビア語を話すキリスト教徒だ)
マルタでよく見る表札。家主の名前ではなく、「家」自体に名前をつけている |
聖書の登場人物をよく見かけた。日本だったら「イザナギ」とか命名する感じか |
マルタ騎士団(?)を描いた表札も。素朴画のようなタッチが味わい深い |
パスタもスープもうさぎもおいしい
マルタで次に驚いたのは、食べ物がおいしいことだ。地中海の祝福された食材があって、世界で最も「食べること」に情熱を燃やすイタリア文化の薫陶を受けているわけだから、そのおいしさはほとんど保証されたようなものである。そういえば、ちゃんとアルデンテになっているパスタを、ずいぶんひさしぶりにレストランで食べた気がする。
アンティパストのAljottaが、まずいきなり最高だった。トマトベースのスープに、魚の切り身とガーリックがたっぷり入ったマルタの郷土料理だ。ボウルの底に沈むライスと混ぜて食べると、これはもう絶品である。オーダーの作法など無視して、これだけを何度もおかわりして食事を済ませたくなるほどだった。
マルタでは魚料理が全体に豊富だ。あちこちを巡って、いちばん気に入ったのは、マルタ島南東部にあるLa Favoritaという家族経営のレストラン。この店が立地するMarsaskalaという町は、古くからシチリア出身の漁師たちの集落として知られる。彼らが収穫した魚介類が、そのままキッチンに運ばれてくるのだ。
この店に行くにはヴァレッタからバスで1時間くらいかかるけど、でもそれだけに完全なる「地元民」価格だ(前述のAljottaは大皿でたった4ユーロ)。ここで食事できただけで、マルタに来た甲斐はあったと思う。いや、内陸国のオーストリアに住んでいると、どうしても新鮮な魚料理への飢えが募ってゆくのです。
肉料理では、Fenekという身のしまった兎肉がおいしかった。我々が訪れたときはちょうど聖ペテロと聖パウロの祝日の直後で、その祝祭料理として饗されるうさぎのパスタを食べた。「うさぎのパスタ?」と聞くとちょっと怯むけど、そしてミッフィーを愛する子どもたちには言えないけど、しかしこれが実際に旨いのだから許してほしい。以前フランスで食べた兎肉とはまた違った滋味で、さっぱりした飲み口のマルタビール「CISK」との相性も抜群だった。
うさぎを食べる習慣は、もともとはマルタを占領したノルマン人が持ち込んだものという。ちなみにビールの醸造技術は、これもマルタを統治した英国から輸入された。つまりマルタ料理の質の高さは、紀元前から1964年の独立に至るまで、近隣の列強国にかわるがわる支配されてきた(戦略的要衝として幾度もバトルフィールドとなった)歴史に支えられたものなのだ。これはシニカルな、しかし一面の真実である。
マルタは暑いので、教会の中でも扇風機が活躍する |
街中に響く炸裂音の正体がわからない
マルタには7泊した。スリーマの港まで徒歩10分のHacienda Apartments。私の愛するアパート型ホテルだ。84m2の広さで、洗濯機や食洗機もある。なぜかトイレが2つある。インターネットTVもあって、YouTubeの幼児番組「Baby Bus」「Peppa Pig」は我が家の救世主となった。7月初旬のシーズン価格で1泊あたり約17,000円(=1人あたり4,250円)。悪くない料金だ。滞在初日の夕方、ダダダダッ…ダダダダダダッ…という炸裂音が轟いた。何か戦争でもはじまったのかとベランダに駆け寄ったが、特に変化は見られない。道行く人も平然としている。戦時下の日記などを読むと「敵襲に慣れて普段どおり生活する人たち」がしばしば出てくるけれど、ちょうどそんな感じである。
次の日にも、その次の日にも、同じことがあった。けれども轟音の正体は結局わからない。最初はヴァレッタで騎士団が空砲を撃つ定例パレードかと思ったが、それにしては音が近すぎるし、だいいち時間帯が合わない。
いくつか調べて、これは聖ペテロと聖パウロの祝日にちなんだ花火大会ではないか、という仮説が立てられた。ホテルから海が見えないので、花火の音だけが聞こえてくるのだ。だが、このダダダダッ…ダダダダダダッ…という緊迫した音は、花火というより、どちらかといえば陸上自衛隊の富士総合火力演習のそれに近い。
私はそのとき海岸まで足を運んで、自分の目で仮説の是非を確かめるべきだったのかもしれない。しかし私は浜辺に打ち上げられたビニール袋のようにくたくたに疲れていて、ほどなく眠りの底に沈んでしまった。そして次の日の夕方には、もう轟音は聞こえなかった。だから、このスリーマの炸裂音は、私の人生における小さな未解決の謎として残されている。
スリーマのマッサージ屋で、タイの洞窟のニュースを知る
スリーマではタイマッサージのお店をよく見かけた。1時間あたり40ユーロ程度で、ウィーンの相場(60ユーロ)よりも安い。予約もせずに、吸い込まれるように入店した。このとき、私は迂闊にもカンボジアで買ったTシャツを着ていた。私はこういう失敗をときどきやる(ウィーンで台湾の外交官一家と食事をしたとき、三菱重工で買った零式艦上戦闘機のおもちゃを慌てて隠した一幕もあった)。Tシャツはすぐに脱いだので、幸いマッサージのお姉さんの目には留まらなかった。
お姉さんはスマホの動画で、タイの洞窟の奥深くに閉じ込められた少年たちのニュースを、朝から晩まで追っているという。それから数日後に世界中で広く拡散された話を、私はここではじめて知った。
お姉さんの話は自らの身辺にも及んだ。曰く、マルタにはタイ人が600名ほど住んでいる。気候が似ているし、お金も稼ぎやすい。そしてなにより治安がよい。軍事クーデターの心配もない。英語さえ話せれば、タイ人にとっては極上の生活環境だ。
13年前まで、ある日本人男性と交際していた。結婚の直前まで行ったけど、いろいろな事情があって日本に入国できず、やがて破局した。だからもう日本語はほとんど忘れてしまった。「キモチイイ」という言葉だけは覚えてるけど(と彼女は笑う)。それからマルタに移住したのが、たしか11年前のこと。そうか、もうずいぶん昔のことになるんだね。
11年前といえば、私が奥さんと結婚して、墨田区錦糸町の安アパートに住みはじめた頃だ。それから「アメリカ ⇒ 日本 ⇒ オーストリア」という軌跡を描いて、いまこの瞬間にはマルタの地を踏んでいる。そこで「タイ ⇒ マルタ」のお姉さんと、1時間ぶん、40ユーロぶんの人生を共有している。
帰り際に次回の予約を入れた。その時間に行ってみると、お店のシャッターが下りていた。たぶん洞窟のニュースに夢中になって、予約の存在を忘れたのだろう。
私とお姉さんの人生の共有は、それで唐突に終わりになった。
バスとフェリーでビーチに行く
マルタには素敵なビーチがいくつもある。ダイビングを嗜む人には岩場のビーチが最適と思うが、幼児連れの身としては、やはり初心者向けの砂場のビーチを選んで出かけることになる。今回我々が訪れたビーチは、以下の4カ所だ。
1. マルタ島の南東部にあるSt. Thomas Bay Beach
2. マルタ島のスリーマ近くにあるExiles Bay Beach
3. ゴゾ島の北部にあるRamla Bay Beach
4. コミノ島の西部にあるBlue Lagoon
これらのビーチには、すべて公共交通機関(バスとフェリー)で行った。それで正解だったと思う。21ユーロで7日間バス乗り放題のチケットはすこぶる便利だし、子どもたちもマルタ語の車内アナウンスをたのしんだ(5歳の息子は「Next Stop」を意味する「il-waqfa li jmiss」をいまでも連呼している)。レンタカーを使う選択肢も少しは考えたが、マルタの狭い道路を無事故でしのげる自信は私にはなかった。
なかんずく、ゴゾ島の入り組んだ迷路のような道は圧巻だった(実際に防衛戦略として有効であったに違いない)。それも曲がり角の連続する隘路のあちこちで路上駐車がされている。ほとんど嫌がらせみたいな状況なのだが、バスの運転手は右へ左へ、軽業師のようにすいすいとダンジョンを潜り抜けてゆく。この運転技術には敬服するほかはない。
St. Thomas Bay Beach |
Exiles Bay Beach |
Ramla Bay Beach |
Blue Lagoon (1) |
Blue Lagoon (2) |
ビーチでくらげに刺される
これらの4カ所のビーチのうち、ガイドブック的に最も有名な場所といえば、やはりコミノ島のBlue Lagoonだろう。あとで息子に聞いてみても、ここがいちばんだったという。なるほどここは海の透明度も抜群で、足首ほどの浅瀬にも小魚がたくさん泳いでいる。5歳の息子は釣りに憧れがあって(ゲーム「どうぶつの森 ポケットキャンプ」の影響だ)、拾った木の棒で魚を追いかけ、無邪気に水面を叩いていた。それは釣りと呼ぶにはあまりに原始的な行為だが、彼は飽きずにそうして魚と戯れていた。魚にとっては大迷惑だと思うけれど。
Blue Lagoonもよかったが、個人的にはゴゾ島のRamla Bay Beachがすばらしかった。若干辺鄙な場所にあるけれど、それだけに人が少なく、ビーチも広い。波はどこまでも穏やかで、砂粒はどこまでも足裏に優しい。海水浴には絶好のスポットである。
私はここで、子どもに水泳の初歩を教えるつもりだった。夏休みになれば幼稚園でプールの課外授業もはじまる。水を恐れない精神を育んでほしかった。
ところがこの日は、たまたまビーチにくらげが大量発生していた。カツオノエボシのような即死級のフォルムではなく、かさが少しく赤みを帯びた小型のくらげだ。見た目もどことなく可愛らしい。たぶん大丈夫だろう。問題のないことを示すために、私は勇んで泳いでみせた。
けれどもそれが問題だった。泳ぎはじめてすぐに、足首とふくらはぎに激痛が走る。あとで調べたところ、これはおそらくミズクラゲの一種で、まごうことなき毒くらげだった。周りにも刺された人びとが続出して、2歳の息子は「ちく、こわい」と怯えるようになってしまった(ちく=くらげの幼児語)。
教訓:くらげを見たら泳ぐのはやめよう。
「スリーマ~ヴァレッタ」のフェリー。香港の「尖沙咀~中環」を思わせる航路の短さ |
首都ヴァレッタを歩く
マルタを観光するなら、世界遺産の街ヴァレッタを外すことはできない。ここもドブロブニクに似た城塞都市で、市街の面積もほぼ同じである。中世の時代、城壁を囲んで街を守るには、たぶんこのくらいのサイズが最適(あるいは限界)だったのだろう。齢70の騎士団長ヴァレットがオスマン帝国軍に立ち向かったマルタ包囲戦。その4世紀後に連合軍と独伊軍が激突した、もうひとつのマルタ包囲戦。歴史を仰ぎ見る者にとって、マルタの首都ヴァレッタは格別な輝きを放つ場所である。
しかしここで生じる問題は、幼児は通常、史跡や博物館の類にまったく興味がないことだ。彼らは「いま」この瞬間の連続に生きているので、先人の記録とか遺産とか、そうしたものに目を向ける必要がないのである。
そういうわけで、子どもたちの退屈を解消させるために、噴水遊びやアイスクリーム屋さんなどを挟みつつ、丸2日かけて、
聖ヨハネ准司教座聖堂(St John's Co-Cathedral)
騎士団長の宮殿(Grand Master’s Palace)
兵器庫(Palace Armoury)
おもちゃ博物館(Toy Museum)
国立戦争博物館(National War Museum)
などを巡った。これは本当に贅沢な、至福の時間であった。
セントジョージ広場(St George Square)の噴水 |
結局、こうなってしまう |
意外な拾い物、おもちゃ博物館
ヴァレッタの一隅にひっそりとたたずむおもちゃ博物館は、意外な拾い物(といっては失礼だけど)であった。地下階を含む3階建ての小さな建物に、古稀をゆうに超えた(とおぼしき)お爺ちゃんが、ひとりで店番をしている。館内には、この人のコレクションが所狭しと並べられているのだ。
お爺ちゃんの少年時代に重なるのだろう、1950年代のおもちゃが目立つ。ドイツ製、英国製のほか、日本製のおもちゃも結構な割合を占める。「日本のお客さんもよく来るよ」との由。
お爺ちゃんは気前よく展示品を実演してくれた。1912年にドイツで作られたぜんまい仕掛けの玩具がいまでも支障なく動いて、2016年生まれの息子をたのしませる。おもちゃの寿命は、ときに人間の寿命を超えるのだ。
入場料金は大人3ユーロ、子どもは無料。営業時間は午前10時から午後3時まで、正味5時間しか開いていない(夕方に訪れたら閉館だった)。そして土日は午後1時に閉まる。ここではお爺ちゃんの健康状態の維持がなにより大切なのである。
でもこういう老後っていいよな、と私はふと考える。生涯をかけて集めた趣味の品々を行きずりの人に見せて、喜んで帰ってもらう。1日に平均20人のお客さんが来ると仮定して、1か月あたり「3ユーロ × 20人 × 30日 = 1,800ユーロ」の収入。うーん、悪くない。俗人たる私は、つい心の中で掛け算をしてしまう。
昭和の時代の新幹線に、子どもたちは大興奮 |
私はこの人形の表情に大興奮 |
お爺ちゃんがお猿の人形を動かしてくれた |
息子の心も捉えた、国立戦争博物館
国立戦争博物館もすばらしかった。ここは、中世から現代に至るまで、ほぼ大国都合の戦争で埋め尽くされてきたマルタの歴史を、あくまで中立的な視座で紹介する博物館である。この建物は、まず立地が最高である。マルタ騎士団が防衛線として築いた聖エルモ砦(Fort St. Elmo)の中にあるのだ。博物館に向かう道のりで、もう歴史の波濤をひしひしと感じる。彼らはオスマン帝国軍をここで迎え撃ったのだ。
時代ごとに分けられた部屋で、展示物に添えて短い映像が流されている。これがインフォグラフィック的というのか、現代的なセンスでわかりやすく編集されていて、すごくよかった。5歳児の心もしっかり捉えた、本気のわかりやすさであった。
「戦争」という概念をはじめて知った息子の口から、いろいろな質問が飛び出してくる。
「どうして人間は戦争をするの?」
「マルタに爆弾がたくさん落ちたら、マルタの人たちは死んじゃうの?」
「日本は今度いつ戦争をするの?」
ともだちが持っているものを欲しいと思う気持ち、それが抑えられなくなったときに戦争は起きるんだよ。
マルタに爆弾がたくさん落ちたら、マルタの人たちは死んじゃうよ。おとなも、子どもも、同じように死んでしまう。
日本が今度いつ戦争をするか、それは誰にもわからないんだ。
暑い夏の日に、戦没者を追悼する
時は欧州大戦(第一次世界大戦)。大日本帝国海軍の樺型駆逐艦「榊」は、英国の要請を受けマルタに派遣され、艦艇護送等の任務を果たしたが、1917年(大正6年)6月にオーストリア=ハンガリー帝国海軍の潜水艦「U-27」の攻撃を受けて大破。艦長の上原太一海軍中佐以下59名が戦死した。
遺骨の埋葬場所をめぐっては紆余曲折あったが、最終的には英国海軍の配慮により、マルタの英連邦軍墓地に、戦病死者12名を加えた計71名を祀る慰霊碑が建てられた。1921年(大正10年)4月には、昭和天皇陛下(当時は皇太子)も同地を訪れ、墓前に花輪を捧げられた。
画像引用:能條純一「昭和天皇物語(4)」小学館, p.40 |
そういう場所が、マルタにはある。
暑い夏の日に、5歳の息子と手をつないで、私もそこに行ってみた。
カルカーラ海軍共同墓地(Kalkara Naval Cemetery)へは、ヴァレッタからバスを乗り継いで1時間と少し。94番のバス停「Marzebb」から歩いて3分ほどだ。
我々が来たときには、訪問者は誰もいなかった。受付の小屋も無人だ。でも机上のノートには、多くの日本人が記帳していた。
日本の慰霊碑は、共同墓地の奥にある。目を瞑って、両手を合わせる。71名の戦没者たち、そして遺された家族のことを想う。
5歳の息子は、「戦争」のほかに、「死」という概念もおぼろげに理解するようになった。帰り道、いくつかの無垢な質問に応える形で、息子と「死」について話す時間がある。
生まれたものは、やがては死んでしまうということ。マルタの路上で寝そべる猫も、海を漂うくらげも、パパも、ママも、いつかは必ず死んでしまうこと。きみにも本当はお兄ちゃんがいたけれど、パパとママに会う前に死んでしまったこと。だからきみが生まれたとき、パパは本当に本当にうれしかったんだよ、ということ。
墓地から坂道を下ったところにあるカルカーラのバス停で、ヴァレッタ行きの3番のバスを待つ。でもバスはなかなか来ない。もう20分以上も遅れている。今日は本当に暑い日だ。
水筒の水がなくなったので、パン屋さんでファンタレモンを買う。それから袋詰めの落花生を1ユーロで買って、息子と分け合う。
バス停のベンチで、ジュースを飲んで、落花生を食べる。そして目の前には海がある。外形的には千葉県館山市にいるのとあまり変わらないな、と唐突に思った。
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