コロナ逡巡日記① (2月25日~3月1日):国内初の感染者が出る
新型コロナウィルス(COVID-19)の感染が世界中に広がっている。
私はこれまで、本件を拙ブログで取り上げる必要性を感じなかった。しかるべき専門家たちが情報発信をされており、そこにあえて(医療の専門知識を持たない私が)後追いするのは、ProsよりもConsのほうが大きいように思えたのだ。
そうした意見は、しかしながら、最近になって反転してきた。
今般の事案については、後世の人たちから「ひとつの時代の区切り」と判断されるかもしれない、と思うようになった。ゆえに、いまこの時期にたまたまウィーンに暮らしている私が、自らの経験と行動を、考察と心象を、主観と客観を、衒いのない形で書き記しておくことには意義があるのではないか。かつて山田風太郎「戦中派不戦日記」や古川ロッパ昭和日記を愛読していた私は、そう考えるようになったのだ。
というわけで、これからしばらく「コロナ逡巡日記」と題する不定期の雑文をしたためる。オーストリア国内初の感染症例が報告された2020年2月25日を開始日とするが、執筆者は3月27日時点から記憶を遡って記すため、若干の事実誤認などがある可能性をお含みおきありたい(お気づきになった読者諸賢におかれては、遠慮なくご指摘ありたい)。
ついに来たか、と思う。
この週、私はインドネシアに出張していた。ウィーンを発つ直前に「インドネシア政府が感染疑いのある日本人を入国拒否した」との報道があって緊張感を高めていたところだったが、いよいよオーストリアにも感染者が現れたのだ。
とはいえ、正直なところ、この時点で私はあまり深刻には捉えていなかった。
まずは目先の本業――いくつかのプレゼンと、ワークショップの共同議長役をする仕事――に加えて、デイリーポータルZ編集部に「通勤前にベートーベンちに行く」の原稿を提出することで精いっぱいであった。
そして仕事がひと段落すれば、会場の外に広がるは優しきアジアの熱帯都市。約10年ぶりに訪れたジャカルタの街をたのしむほかに選択肢はなかった。
そうして私は、ジャカルタで見かけた三角コーンの写真を撮って、尊敬する三土たつおさんにメッセンジャーで送信するのであった。
とはいえ、ジャカルタでもマスクは人気のようだった。宿泊したホテルの近く(繁華街のブロックM周辺)では、どの店もすでに売り切れだった。
ジャカルタはイスラム教の国なので、ヒジャブ(ムスリム女性が頭に被る布)で口元を包んでマスクの代用としている人が多かった。予防効果のほどは怪しいけれど…。
ワークショップが無事に終わって安堵する。今回の案件は、インドネシア人のほかにフィンランド人と南アフリカ人と一緒に仕事をしている。
ホテルで一緒に朝食を取っていると、やはりコロナウィルスの話題になる。このころ、日本・中国・韓国・イランでの感染拡大が目立っており、イタリアなどでも不穏な気配がみられていた。しかし、インドネシアやヨーロッパ諸国で同規模の(またはそれ以上の)感染拡大が起こるリスクを憂う人は、少なくとも私の周りにはあまりいなかった。「なにか大変なことになっているよね」程度の認識だった。
「そういえばアフリカ大陸にはまだ感染者が出ていないけど、実際どうなんですか?」と、南アフリカ人のSさんに質問をした。
「わたしの国には、もっと深刻な問題がたくさんあるからね」と彼は穏やかに微笑んだ。「死んでしまったら、それは神さまに見放されたということだ。それだけの話だよ」
チャコールグレーのスーツを身に纏い、完璧なイギリス英語を話すSさんから、急に生身の暴力のような発言が出てくるのであった。
この日はずっと、ジャカルタ発(ドーハ経由)ウィーン着のフライトに乗る。どうも体調がすぐれない。仕事の疲れがたまっているのか。前々日の飲み会で笑い過ぎて、のどを痛めたのもよくなかった。「まさかコロナじゃないよな…」と不安がよぎる。
少しく体調が悪いとき、私は活字に救いを求める傾向にある。機内で開高健「輝ける闇」を読了する。鮮烈な文体。学生時代に読んだときとは印象が全然違う。
余勢を駆って西川恵「知られざる皇室外交」と城山三郎「中京財界史」も読む。気がつくとウィーン空港に着いている。コロナの検疫などは何もなく、ちょっと拍子抜けする。
いつのまにか元気になっている。
ひさしぶりのウィーン、ひさしぶりの自宅。私が不在にしていた週に、さまざまな状況変化があったと知らされる。
6歳児が通う小学校では、水泳教室がキャンセルされた。集団感染の恐れがある課外活動の取りやめも決定された。また、保護者に対しては、コロナウィルスの感染危機に際して、
息子たちは元気である。もうちょっと落ち着いてくれよ、と思うくらいの元気さである。
「隣国イタリアがまずいことになっているらしい」との情報が、断片的に入ってくる。この段になって、私もようやく自発的に情報を集めるようになった。
気分転換に散歩をすれば、往来を歩く人の少ないことに気づかされる。中国人観光客の団体ツアーもほとんどいない。
そうしたところへ、小学校からのメールを受信する。学校関係者から2名の感染者が出た。これを受け、明日(2日)と明後日(3日)は学校を閉鎖する。それ以降については明日の緊急会議で決めることとする。
ウィーンの夕暮れに、灰色の雲がたなびいている。
(コロナ逡巡日記②に続く)
私はこれまで、本件を拙ブログで取り上げる必要性を感じなかった。しかるべき専門家たちが情報発信をされており、そこにあえて(医療の専門知識を持たない私が)後追いするのは、ProsよりもConsのほうが大きいように思えたのだ。
そうした意見は、しかしながら、最近になって反転してきた。
今般の事案については、後世の人たちから「ひとつの時代の区切り」と判断されるかもしれない、と思うようになった。ゆえに、いまこの時期にたまたまウィーンに暮らしている私が、自らの経験と行動を、考察と心象を、主観と客観を、衒いのない形で書き記しておくことには意義があるのではないか。かつて山田風太郎「戦中派不戦日記」や古川ロッパ昭和日記を愛読していた私は、そう考えるようになったのだ。
というわけで、これからしばらく「コロナ逡巡日記」と題する不定期の雑文をしたためる。オーストリア国内初の感染症例が報告された2020年2月25日を開始日とするが、執筆者は3月27日時点から記憶を遡って記すため、若干の事実誤認などがある可能性をお含みおきありたい(お気づきになった読者諸賢におかれては、遠慮なくご指摘ありたい)。
出所:在オーストリア日本国大使館「新型コロナウィルス関連情報」より筆者作成(以下同) |
2月25日(火)
在オーストリア日本国大使館から、「オーストリア国内で2名の新型コロナウイルス(COVID-19)感染の確定症例が報告されました。」との一斉メールを受信する。ついに来たか、と思う。
この週、私はインドネシアに出張していた。ウィーンを発つ直前に「インドネシア政府が感染疑いのある日本人を入国拒否した」との報道があって緊張感を高めていたところだったが、いよいよオーストリアにも感染者が現れたのだ。
今月25日(火),プラッター・チロル州首相は記者会見を開き,チロル州で2人が新型コロナウィルス(COVID-19)に感染したことが確認された旨発表しました。
プラッター首相によると,2人はインスブルック市に居住するイタリア・ロンバルディア州出身のイタリア人(2人とも24歳)で,感染の症状があったために自ら当局に申し出た後,検査で陽性が判明しました。
現在,2人はインスブルックの病院で隔離されています。オーストリアで新型コロナウィルス感染が確認されたのは初めてです。
プラッター首相によると,2人はインスブルック市に居住するイタリア・ロンバルディア州出身のイタリア人(2人とも24歳)で,感染の症状があったために自ら当局に申し出た後,検査で陽性が判明しました。
現在,2人はインスブルックの病院で隔離されています。オーストリアで新型コロナウィルス感染が確認されたのは初めてです。
引用:在オーストリア日本大使館「新型コロナウィルス関連情報:2月25日」
(太字・下線及び改行は引用者によるもの。以下同様)
(太字・下線及び改行は引用者によるもの。以下同様)
トランジット先のカタール空港にて。このときすでにマスク着用者が目立っていた |
とはいえ、正直なところ、この時点で私はあまり深刻には捉えていなかった。
まずは目先の本業――いくつかのプレゼンと、ワークショップの共同議長役をする仕事――に加えて、デイリーポータルZ編集部に「通勤前にベートーベンちに行く」の原稿を提出することで精いっぱいであった。
そして仕事がひと段落すれば、会場の外に広がるは優しきアジアの熱帯都市。約10年ぶりに訪れたジャカルタの街をたのしむほかに選択肢はなかった。
そうして私は、ジャカルタで見かけた三角コーンの写真を撮って、尊敬する三土たつおさんにメッセンジャーで送信するのであった。
2月26日(水)
ジャカルタ市内で(家族へのお土産を兼ねて)マスクを探す。ウィーンでは覆面禁止法により公共の場でのマスク着用が禁じられているので、品薄以前に、そもそもマスクが手に入りにくいのだ。とはいえ、ジャカルタでもマスクは人気のようだった。宿泊したホテルの近く(繁華街のブロックM周辺)では、どの店もすでに売り切れだった。
ジャカルタはイスラム教の国なので、ヒジャブ(ムスリム女性が頭に被る布)で口元を包んでマスクの代用としている人が多かった。予防効果のほどは怪しいけれど…。
2月27日(木)
今月27日(木), ハッカー・ウィーン州(市)社会・保健・スポーツ担当参事は記者会見を開き,ウィーン市で72歳の男性が新型コロナウィルスに感染したことが確認された旨発表しました。
ウィーン市内で新型コロナウィルス感染が確認されたのは初めてです。墺連邦保健省によれば,これでオーストリアにおける確定症例は3名となります。
また,オーストリア外務省は26日,イラン・コム市に対して,新型コロナウィルス蔓延を理由に「渡航中止・避難」を求める危険レベル5を発出しました。
ウィーン市内で新型コロナウィルス感染が確認されたのは初めてです。墺連邦保健省によれば,これでオーストリアにおける確定症例は3名となります。
また,オーストリア外務省は26日,イラン・コム市に対して,新型コロナウィルス蔓延を理由に「渡航中止・避難」を求める危険レベル5を発出しました。
引用:在オーストリア日本大使館「新型コロナウィルス関連情報:2月27日」
ワークショップが無事に終わって安堵する。今回の案件は、インドネシア人のほかにフィンランド人と南アフリカ人と一緒に仕事をしている。
ホテルで一緒に朝食を取っていると、やはりコロナウィルスの話題になる。このころ、日本・中国・韓国・イランでの感染拡大が目立っており、イタリアなどでも不穏な気配がみられていた。しかし、インドネシアやヨーロッパ諸国で同規模の(またはそれ以上の)感染拡大が起こるリスクを憂う人は、少なくとも私の周りにはあまりいなかった。「なにか大変なことになっているよね」程度の認識だった。
「そういえばアフリカ大陸にはまだ感染者が出ていないけど、実際どうなんですか?」と、南アフリカ人のSさんに質問をした。
「わたしの国には、もっと深刻な問題がたくさんあるからね」と彼は穏やかに微笑んだ。「死んでしまったら、それは神さまに見放されたということだ。それだけの話だよ」
チャコールグレーのスーツを身に纏い、完璧なイギリス英語を話すSさんから、急に生身の暴力のような発言が出てくるのであった。
2月28日(金)
27日(木)夜以降,ウィーン市内で新たに3名の新型コロナウイルス(COVID-19)感染の確定症例が報告されました(累計確定症例数は6名)。
オーストリア政府は日本に対して,新型コロナウィルス蔓延を理由に「注意」を求める危険レベル2を発出しました。
オーストリア政府は日本に対して,新型コロナウィルス蔓延を理由に「注意」を求める危険レベル2を発出しました。
引用:在オーストリア日本大使館「新型コロナウィルス関連情報:2月28日」
この日はずっと、ジャカルタ発(ドーハ経由)ウィーン着のフライトに乗る。どうも体調がすぐれない。仕事の疲れがたまっているのか。前々日の飲み会で笑い過ぎて、のどを痛めたのもよくなかった。「まさかコロナじゃないよな…」と不安がよぎる。
少しく体調が悪いとき、私は活字に救いを求める傾向にある。機内で開高健「輝ける闇」を読了する。鮮烈な文体。学生時代に読んだときとは印象が全然違う。
余勢を駆って西川恵「知られざる皇室外交」と城山三郎「中京財界史」も読む。気がつくとウィーン空港に着いている。コロナの検疫などは何もなく、ちょっと拍子抜けする。
いつのまにか元気になっている。
2月29日(土)
29日(土), ニーダーエーステライヒ州コールノイブルグ(Korneuburg)地区に居住する夫婦が,新型コロナウイルス(COVID-19)に感染していることが確認された旨発表されました。この夫婦は27日に感染が確認されたウィーン市の家族と接触があった模様です。
また,シュタイヤーマルク州では,北イタリアの見本市を訪れていた52才の女性の同ウイルス感染が確認されました。
さらに,ザルツブルグ州では,ウィーン市に居住する36才の女性がピンズガウ(Pinzgau)のパートナーの家に滞在中に同ウイルス感染が確認されました。
いずれの州においても初の確定症例となりました。
墺連邦保健省によれば,これでオーストリアにおける確定症例は10名となります。
また,シュタイヤーマルク州では,北イタリアの見本市を訪れていた52才の女性の同ウイルス感染が確認されました。
さらに,ザルツブルグ州では,ウィーン市に居住する36才の女性がピンズガウ(Pinzgau)のパートナーの家に滞在中に同ウイルス感染が確認されました。
いずれの州においても初の確定症例となりました。
墺連邦保健省によれば,これでオーストリアにおける確定症例は10名となります。
引用:在オーストリア日本大使館「新型コロナウィルス関連情報:2月29日」
ひさしぶりのウィーン、ひさしぶりの自宅。私が不在にしていた週に、さまざまな状況変化があったと知らされる。
6歳児が通う小学校では、水泳教室がキャンセルされた。集団感染の恐れがある課外活動の取りやめも決定された。また、保護者に対しては、コロナウィルスの感染危機に際して、
- Stay Positive
- Put the outbreak in scope
- Talk to your child directly: ask them what they have heard about coronavirus
- Gently correct misinformation
息子たちは元気である。もうちょっと落ち着いてくれよ、と思うくらいの元気さである。
3月1日(日)
1日(日),オーストリア当局によれば,新たに4名(全てウィーン市内)が新型コロナウイルス(COVID-19)に感染していることが確認された旨発表されました。
このうち2名はドイツ人観光客で,ドイツ国内でカーニバルに参加した後,ウィーンを訪問中にウイルス感染が確認されました。
また,女性1名については,ミラノを訪問し帰国後にウイルス感染が確認されました。
このうち2名はドイツ人観光客で,ドイツ国内でカーニバルに参加した後,ウィーンを訪問中にウイルス感染が確認されました。
また,女性1名については,ミラノを訪問し帰国後にウイルス感染が確認されました。
引用:在オーストリア日本大使館「新型コロナウィルス関連情報:3月1日」
「隣国イタリアがまずいことになっているらしい」との情報が、断片的に入ってくる。この段になって、私もようやく自発的に情報を集めるようになった。
気分転換に散歩をすれば、往来を歩く人の少ないことに気づかされる。中国人観光客の団体ツアーもほとんどいない。
そうしたところへ、小学校からのメールを受信する。学校関係者から2名の感染者が出た。これを受け、明日(2日)と明後日(3日)は学校を閉鎖する。それ以降については明日の緊急会議で決めることとする。
ウィーンの夕暮れに、灰色の雲がたなびいている。
(コロナ逡巡日記②に続く)
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