そして帝国は滅んだ(ウィーン軍事史博物館)

「家族がだめになっていく話」を読むのが好きだ。

 たとえば、チェーホフの「桜の園」
 たとえば、北杜夫の「楡家の人びと」
 たとえば、ガルシア=マルケスの「百年の孤独」

 かつて栄華を誇った一族が、いろいろな要因がからまって、避けようもなく衰退してゆく。ゆるやかな滅びへと向かってゆく。

 それでも生きていかざるを得ない、よるべなき人たちの群像の物語。そういうものを、学生の頃からいままで、ずっと愛好してきた。

 家族とは最小単位の共同体である。そして究極の共同体といえば、これはやはり国である。
 だから私は、同じ文脈で、「国がだめになっていく歴史」を追うのも好きだ。

 たとえば、古代ローマ帝国
 たとえば、ビザンティン帝国
 たとえば、ヴェネツィア共和国

 生まれてほどなく死んでしまった国よりも、何百年も続いて、世界を掌中におさめるような時代もあったのに、やがて衰亡し、消滅してしまった国のほうに心惹かれる。

 そういう意味で、ハプスブルク帝国(君主国)は、私の興味関心のど真ん中ストレートの国である。

 ドイツ文学者の池内紀が、オーストリア政府の観光パンフレットによせて、ハプスブルクの特異さについて文章を書いている。

 ハプスブルクは不思議な王家である。まず第一に、おそろしく長命だった。アルプスの一豪族から始まり、その王朝は640年にわたる。7世紀に及んで覇権を握り続けた王家は、ほかに類をみない。

 第二に、その間、ほとんど血なまぐさい事件を起こさなかった。王権には権力をめぐる骨肉の争いがつきものであって、何代も続くにつれ、不義、毒殺、謀殺、斬首沙汰などがあとを絶たない。だがハプスブルク家には、これだけ長い統治にあって、その種のことがほとんどなかった。

 第三に覇権のためには戦争が不可欠だが、ハプスブルクはまわりの状勢から、やむなく出陣にいたるほかは戦わなかった。にもかかわらず広大な「日の没することのない国」を統治していた。

 もう一つ、この王家の支配下にあった民族のこと。ゲルマン系、スラブ系、ラテン系、アジア系と多岐にわたり、こまかくいうと13の民族を数え、使われている言葉もまた、その数に応じていた。途方もない多民族国家が何世紀にもわたり、ひとつの王家のもとにあって、つつがなく存続した。これもまた世界史に類例のないことだろう。


 そのように不思議なハプスブルクの歴史を、主に戦争の観点から切り取ったミュージアムがウィーンにはあって、その名をウィーン軍事史博物館(Heeresgeschichtliches Museum)という。

 ここを息子たちと一緒に訪問したので、今回はそのことを書いてみたい。
 いやあ、前からずっと来たかったんですよ。ようやく願いが叶いました。


ウィーン軍事史博物館(Heeresgeschichtliches Museum)

 

来館して、いきなりの大戦勃発

ウィーン軍事史博物館の建物は、もともとは1848年革命を受けて、市民蜂起の対策として造られた兵器庫だった。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の最初期の時代である。

 建設に6年を費やし、1856年に竣工した(内装にはもっと時間がかかり、1872年に完成)。ここがウィーンで最古の博物館であるという。


ウィーン軍事史博物館(Heeresgeschichtliches Museum)
兵器庫にしては豪華すぎる内装。これがハプスブルク・マナーということか

ウィーン軍事史博物館(Heeresgeschichtliches Museum)
エレベーターの天窓を覗いただけでこれである


 ウィーン軍事史博物館のおもしろいところは、現在(2018年)見られる展示の半分以上が、博物館ができた後の時代を扱っているということだ。

 つまり、その創設当初こそ、兵器の陳列を通じて帝国の国威発揚を期待され、また期待どおりに元気に発揚していたのだろうけれど、そこから普墺戦争欧州大戦(第一次世界大戦)第二次世界大戦と敗戦を重ね、領土を奪われ、ついには国家が消滅した歴史を、この博物館はアクチュアルに同時代的に経験して(爆撃や占領によってたびたび閉館している)、それぞれの証拠物を当事者として集めてきたのである。

 歴史を紹介する主体が、もはや分かちがたく歴史と一体化しているのだ。


ウィーン軍事史博物館、フェルディナント大公が乗っていた自動車


 1階の受付から近い部屋に、クラシック・カーがまるごと置いてある(写真上)。

 なんだこりゃ、と思って見ると「1914年のサラエボ事件で狙撃されたフランツ・フェルディナント大公が乗っていた自動車」との説明がある。そしてその傍らには、「そのときに大公が着ていた血まみれの服」「セルビア人青年が暗殺に使用した銃」が、なんだか即物的な感じで展示されている。

 来館して、いきなりの第一次世界大戦の勃発。
 まったく油断できないのである。


ウィーン軍事史博物館
2歳の息子は大砲に興味しんしん。学芸員さんに微笑まれていた

売店には軍帽などさまざまなグッズがある(ナチス関連はなかった)


その淡泊さは、どこからくるのか

コンテンツ(展示物)のすばらしさに加えて、その見せ方にもセンスが冴えわたっている。

 とりわけ第一次世界大戦のコーナーでは、トーチカや戦闘機などの立体的な配置が絶妙で、「なるほど、ここからこのように迎え撃ったのだな」という実感がしみじみ湧いてきた。

 けれども、館内をめぐっているうちに、ひとつの違和感が生じてきた。というのは、展示の対象は、前述のとおり「敗け続けて、打ちのめされるプロセス」が大部分を占めているので、そうであれば「打ちのめした国」へのルサンチマンというか、少なくとも「わが国はどのようにして打ちのめされたか」をアピールする要素があってもおかしくない。でもこの博物館は、そういった方面については不思議に淡泊なのである。

 たとえば、ホーチミンの戦争証跡博物館では、枯葉剤でやられた奇形胎児のホルマリン漬けなどのショッキングな展示物が並んでいて、訪問者はベトナム戦争(とそれを起こしたアメリカ)に対する明確なメッセージを受け取ることになる。中国各地にある抗日戦争博物館では、日本軍の残虐さがこれでもかというほど強調されている。メッセージはここでも明らかだ。

 また、これは博物館の話ではないが、10年前に私がクウェートのとある油田を訪れたとき、一区画だけ未整備でぼろぼろになっていた。これはなんだと案内人に尋ねると、「イラク軍に爆撃された跡だよ。この油田はもう99%は復興した。しかし残りの1%をあえて修復させないことで、イラクへの憎しみを永遠に忘れないようにするんだよ」とのことであった。

 憎しみを永遠に忘れないようにする、という発想。


ウィーン軍事史博物館の戦闘機など


 ウィーン軍事史博物館では、翻って、そのような気配があまりない。自分たちを「打ちのめした国」に対するくぐもった気持ちのようなものが、水面の上に浮かびあがってこないのだ。

 これは一体どういうことか。ダイレクトな感情の表出をよしとしない、帝国滅亡後にも生き残るハプスブルク・マナーということか。

 ある部分はそうかもしれない。
 でも、それだけでもないよな、という直感が私にはある。

 ベトナムや中国と(あるいはクウェートと)オーストリアとの最大の違いはなにか。私の思うところ、それは、「打ちのめされた国」としてのアイデンティティの地盤の強弱にある。

 要するに、オーストリアは、弱いのだ。自分たちは戦争の被害者である、と主張するための拠りどころに、隠しきれない揺らぎがあるのだ。

 ここからはかなりセンシティブな話になるので、すべて私の個人的見解にすぎない、という断り書きを強調しておきたい。

 ドイツとオーストリアの間にある根深い確執のひとつに「戦争責任問題」がある。つまり、ドイツは先の大戦の一義的な戦犯として糾弾され、然るべき賠償責任を負った。これに対して、オーストリアは併合(アンシュルス)された被害者の立場として、戦後処理に携わった。

 しかし、別の視点からすれば、オーストリアはナチズムの台頭に責を負う立場にある。ユダヤ人の迫害にも、オーストリアは大いに関与した。むしろ主体者であった。そしてアドルフ・ヒトラーは(彼自身はハプスブルクとウィーンを憎んだにせよ)、オーストリアの地方出身である。ナチス幹部にも、オーストリア出身者は少なからずいた。

 そういう立ち位置にありながら、戦後、オーストリアが被害者の旗を振るというのは、端的に言って筋が通らないのではないか。そういう意識が、ヨーロッパのある種の人びとの間に、いまでも暗渠のように流れている。

 私がウィーンに行く前、ドイツ人の知人が、「ドイツ語は難しいですから、いくら間違えても大丈夫です。でも、ベートーヴェンはドイツ人で、ヒトラーはオーストリア人。これだけは間違えないでください」と冗談めかして言ったのを思い出す。その目は笑っていなかった。

 ウィーン軍事史博物館は、そうした潜在的な批判を念頭に置いて、ことさらに「打ちのめされた国」の文脈を前面に出さないように、その展示手法にも腐心したのではないだろうか。

 館内に漂う不思議な淡泊さは、そういう事情から生まれたものではないだろうか。

 言うまでもなく、これはどこまでも私見(というか邪推)である。けれども、もしこの邪推が当たらずとも遠からずであったなら、「敗戦国」の旗を高らかに掲げることもままならず、戦争で負った深手を言語化するにも屈託がつきまとうオーストリアという国は、ほかのどの国とも異なる、なんとも独自のビターネスを抱えた国なのだな、と思ってしまうのである。


ウィーン軍事史博物館に展示されたハプスブルク帝国の爆弾
帝国の爆弾はシュコダ(Škoda)製。いまなお健在で、原子力などの世界で有名なメーカーだ

ウィーン軍事史博物館の航空機エンジン
帝国の航空機エンジン。フェルディナント・ポルシェ設計、アウストロ・ダイムラー製造

ウィーン軍事史博物館にあったナチスドイツ関連展示
「ハイル・ヒトラー!」と書かれたクッション。どういう状況で使われたのだろうか

ニーダーエステライヒ州立博物館(Lower Austria Museum)の展示
謎のナチス提灯。日独同盟のあだ花か(ニーダーエステライヒ州立博物館で見かけた)


帝国は滅んだが、幻想は生き残る

冒頭に引用した池内紀のエッセイは、以下のように続く。

 五番目の不思議さは、現代とかかわっている。第一次世界大戦の終了とともにハプスブルクは世界のひのき舞台から退場した。もはや王権がモノをいう時代ではない。以来、90年にもなるというのに、ハプスブルクはくり返し甦ってくる。くり返し語られる。遠い昔の女帝が「大いなる母親」としてもどってくる。皇太子の心中がメロドラマになり、美しい皇妃がミュージカルの舞台で歌っている。どの場合にも目印のようにして「ハプスブルク」がついている。

 フランスのブルボン家も、イギリスのウィンザー王朝も、もはや歴史書にあるだけ。ときおり儀礼的に報道されるか、末裔がスキャンダルを起こしゴシップ記事になる程度だが、ハプスブルクはいまなお脈々と生きている。伝統にも宗教にも文化にも、いぜんとしてハプスブルクが色濃く影を投げかけている。

 オーストリアの主だった都市にいて、ふと目を上げると、「双頭の鷲」が王冠をいただいて輝いている。官庁や王宮教会にかぎらない。老舗のケーキ屋や酒屋の軒に、ハプスブルクの紋章がのっかっていたりするのである。


 ウィーンに住んでいると、たしかにそうだよな、と深く納得することしきりの名文である。

 オーストリアの人たちは、たしかにハプスブルクを愛している。理想化している、と言ってもいいくらいだ。

 100~300年ほど前というのは、もはや当事者が生存していない程度には昔のことで、しかし伝説の領域に片足を突っ込むほど大昔というわけではない。

 そのセピア色のほどよい「距離感」が、いまを生きる人たちの心に響く理由かもしれない。そういえば日本でも、明治や江戸のあたりが、しばしば古き良き時代として語られがちだ。


ウィーン軍事史博物館


 チェコスロバキア生まれの同僚のJさんも、ハプスブルク時代への想いを語っていた。

 Jさんは筋金入りの愛国者なので、「チェコスロバキアの重工業が、ハプスブルク帝国を食わせてやったんだ。ウィーンのやつらはザッハー・トルテを作っていただけだ」などとわけのわからないことを言うのだが、それでも「あれはあれで理想の国家だったのかもしれないな」とつぶやくときもある。

 「ひとつの民族にひとつの国家。これが、私の世代の正解のようなものだった。でも最近、本当にそれが正解だったのか、と考えるときもあるんだよね」

 生まれ育った国が「離婚」して世界地図から消え、その十数年後に故国を離れてウィーンの国際機関で長くキャリアを積んだ(あるいは積まざるを得なかった)、私の父親とほぼ同年齢のJさん。彼の目にうつるハプスブルク帝国の姿は、どこまでいっても観察者にすぎない私のそれとは、やはり根源的なところで違いがあるのかもしれない。


ウィーン軍事史博物館


 ウィーン軍事史博物館は、19歳以下は入場無料、大人は6ユーロ。
 年間パスのNカード(Niederösterreich-CARD)を使えば、大人でも無料だ。


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