「電子国家」を見るつもりが、竹馬に乗っていた(タリン)
エストニアに行ったのは、巷で話題の「電子国家」をこの目で見るためだ。
これが、政府の公式な説明文である。
「未来がいま、ここにある」感があふれているではないか。
ビデオチャットのSkypeは、エストニアで起業してから急成長した会社である。
手数料の異様に安い海外送金サービスTransferWiseも、エストニアの企業だ。
ブロックチェーンを使った証券取引所Funderbeamも、やはりエストニア発。
エストニアの人口は、約130万人(2018年1月現在)。
これは、埼玉県さいたま市の人口とほぼ同じ規模だ。
世界を席巻するIT企業が、さいたまスーパーアリーナのあたりで次々に誕生している。
たとえるなら、そういう状況になっているわけだ。
そんなエストニアに興味を持って、いくつかの関連書籍を読み漁った。
そこで気づいたのは、「エストニアはシンガポールだ」ということだ。
人口が乏しく、内需には頼れないので、初手から国際市場で勝負せざるを得ない。
土地が狭く、工場の立地にも限りがあるので、労働集約型産業では勝ち筋がない。
配られた手札が厳しいなかで、空間制約の少ない金融・IT分野を「国策産業」として選ぶ。そうして世界中のベスト&ブライテストが集まるような環境づくりを、ある意味で露骨な政策インセンティブを打ち出して、これまでのところ、一定以上の成功を収めている。
エストニアは北欧のシンガポール、あるいは21世紀のシンガポールと言えるのではないか。
しかし、今回の旅行では、ここを訪れることはなかった。
それは、この施設がどう見ても幼児向けではないからだったし、また、ヘルシンキ~タリンのフェリー券を買ったのが出発の8時間前で、「説明希望者は3営業日前までに予約」のルールを遵守できなかったというのもある。
あまりに衝動的というか、無計画すぎたのだ。
Estonia is probably the only country in the world where 99% of the public services are available online 24/7.
(エストニアは、行政サービスの99%を常時オンラインで提供している、おそらく世界で唯一の国家です。)
E-services are only impossible for marriages, divorces and real-estate transactions – you still have to get out of the house for those.
(エストニアで電子手続きができないのは――つまり、あなたが外出しなければならない手続きは――結婚・離婚・不動産取引だけです。)
(エストニアは、行政サービスの99%を常時オンラインで提供している、おそらく世界で唯一の国家です。)
E-services are only impossible for marriages, divorces and real-estate transactions – you still have to get out of the house for those.
(エストニアで電子手続きができないのは――つまり、あなたが外出しなければならない手続きは――結婚・離婚・不動産取引だけです。)
これが、政府の公式な説明文である。
「未来がいま、ここにある」感があふれているではないか。
将来的には離婚手続きも電子化されることだろう |
「エストニアはシンガポールだ」
エストニアはまた、有力なITベンチャー企業(アメリカ西海岸風に言うとスタートアップ)がいくつも生まれていることでも知られている。ビデオチャットのSkypeは、エストニアで起業してから急成長した会社である。
手数料の異様に安い海外送金サービスTransferWiseも、エストニアの企業だ。
ブロックチェーンを使った証券取引所Funderbeamも、やはりエストニア発。
TransferWiseのサービスは、59ヵ国・504種類の通貨に対応(同社サイトより引用) |
エストニアの人口は、約130万人(2018年1月現在)。
これは、埼玉県さいたま市の人口とほぼ同じ規模だ。
世界を席巻するIT企業が、さいたまスーパーアリーナのあたりで次々に誕生している。
たとえるなら、そういう状況になっているわけだ。
そんなエストニアに興味を持って、いくつかの関連書籍を読み漁った。
そこで気づいたのは、「エストニアはシンガポールだ」ということだ。
人口が乏しく、内需には頼れないので、初手から国際市場で勝負せざるを得ない。
土地が狭く、工場の立地にも限りがあるので、労働集約型産業では勝ち筋がない。
配られた手札が厳しいなかで、空間制約の少ない金融・IT分野を「国策産業」として選ぶ。そうして世界中のベスト&ブライテストが集まるような環境づくりを、ある意味で露骨な政策インセンティブを打ち出して、これまでのところ、一定以上の成功を収めている。
エストニアは北欧のシンガポール、あるいは21世紀のシンガポールと言えるのではないか。
エストニアの首都タリンの旧市街 |
シンガポールの旧市街(2016年撮影)。その風景はタリンとはずいぶん違うけれど |
8時間前の予約はできない
エストニアの国家戦略を学ぶには、首都タリンにあるe-Estonia Showroomを訪問し、政府の専門家から説明を受けるのがおそらく最も効率的である。しかし、今回の旅行では、ここを訪れることはなかった。
それは、この施設がどう見ても幼児向けではないからだったし、また、ヘルシンキ~タリンのフェリー券を買ったのが出発の8時間前で、「説明希望者は3営業日前までに予約」のルールを遵守できなかったというのもある。
あまりに衝動的というか、無計画すぎたのだ。
タリンのバスは、3歳未満の子連れは親も無料。すばらしき北欧スペックだ |
「電子国家」のにおいは嗅ぎ取れない
そうして我々は、無計画なままに、しかしご機嫌に、タリンの旧市街を散歩した。
中世の趣きが残る聖カタリナ通り(Katariina käik)の軒下で、木彫りの針鼠のコースターを買った。でもここに「電子国家」の趣きはまるでない。(クレジットカード読取機の調子が悪くて、現金で支払ったほどだ)
エストニアの郷土料理店「Golden Piglet Inn」で供された豚耳のフライ、これと地ビールの組み合わせは至福であった。だが豚耳と「電子国家」の共通点は少ないだろう。
食後に訪れたKGB強制収容所跡には、山崎豊子の「不毛地帯」にも出てきた拷問用のタンスの実物があって恐ろしかった。とはいえ、これも「電子国家」とはまったく関係ない。
農家風のおばあちゃんが、道端で野菜を売っている。この行為は元祖ブロックチェーンとも呼べそうだが、でもそんなことを言ったら千葉も埼玉もブロックチェーンだらけである。
農家風のおばあちゃんが、道端で野菜を売っている。この行為は元祖ブロックチェーンとも呼べそうだが、でもそんなことを言ったら千葉も埼玉もブロックチェーンだらけである。
ことほどさように、今回の旅行では、「電子国家」のにおいは嗅ぎ取れずじまいであった。
タリンのビールはヘルシンキより安い。もうここに住みたくなってきた |
KGBの尋問が行われた部屋。ここにはできれば住みたくない |
KGBトートバッグ。持ち歩くとトラブル遭遇率が高まりそうで、購入を見送った |
エストニア野外博物館で竹馬に乗る
こうなったら、あえて逆張りをしてみるのも手ではないか。つまり、「電子国家」のイメージから最も遠いところに行ってみるのはどうだろうか。
そのようにして訪れたエストニア野外博物館(Estonian Open Air Museum)が、結果的には子どもたちの心をストレートに捉えることになった。
この博物館は――いや、「博物館」といっても敷地の99%は野外なのだが――18~20世紀のエストニアの農家の暮らしを紹介する施設である。
農場、風車、教会、集会場など、エストニアの人たちが実際に使っていた建造物がそのまま移設され、この場所に集まっている。
「完全再現」とか「リアル」といった形容を飛び越えて、ぜんぶが本物なのである。
古民家の外には、陽光に包まれて編み作業をするおばあちゃんの人形があった。
遠巻きに眺めていると、生きている人にしか見えない。実によくできた人形だ。
・・・と思ったら、本物のおばあちゃんだった。
じっと見ていると、立ち上がり、我々に向かって会釈をされた。これは失礼をした。
おばあちゃんは、この博物館のスーベニアでもある伝統工芸品を編んでいるほか、まばらに訪れるお客さんへのガイド役も兼ねているのであった。
「あなた、日本人?」
「そうです」
「なら、これ知ってるでしょう」と指し示されたのは、
幼児用の歩行器であった。
うーん、まあ、たしかにこういうのも、昔の日本にはあったのかもしれない。
でも私としては、生まれ育った国との共通性をよりダイレクトに感じたのは、
案山子(かかし)であり、
竹馬であった。
まさかエストニアに来て、竹馬で遊ぶことになるとは思わなかったよ。
5歳と2歳の息子はまだ乗れないので、私が手本を示すことになる。おばあちゃんの前では「日本代表」でもある。ここはいい格好をしたい。
でもなにしろ久しぶりなので、すぐに転んでしまう。何度も練習して、やっと10歩を進めるばかり。竹馬は難しい(けどたのしい)という事実を、私は再認識するに至った。
豊かな敷地の片隅には、エストニアの農家の子どもたちが通っていた小学校跡もあった。
この学校は、1877年、地主の協力によって建てられた。当時エストニアはロシアの支配下にあったので、デザインはすべてロシアン・マナーである。
義務教育の学齢は、10歳から13歳まで。国語(エストニア語とロシア語)、算数、音楽、カトリックの教理問答などが教えられた。
学期は10月に始まり、4月に終わった。春~秋の暖かい時期には、子どもは家業を手伝うのが当然だったのだ。
生徒たちは歩いて通学した。学校から6km以上離れた家の子は学校に泊まった。
学費は無料。ただし、生徒が通学しないと両親に罰金が科せられた。
当時の教師は、無給の職業であった。とはいえ、食い扶持を稼げないことには生きてゆけないので、実質的な給料は校庭で農業を営むことで賄われたという。
教師はまた、地域の牧師や合唱団のマネージャーなどをしばしば兼ねていたという。本来的な意味での名誉職だったんですね。
同博物館によれば、エストニアの識字率は、19世紀末の時点で77パーセント。
UNESCOなどの統計によると、同時期の世界平均は21パーセントという。エストニアの田舎の教育水準は、ものすごく高かったのだ。
このどこまでも牧歌的な風景が、わずか100年余りで仮想通貨やらブロックチェーンやらの用語が飛び交う「電子国家」に化けるというのは、あまりにも指数関数的というか、ちょっと簡単には信じられないぞ、という気持ちが最初はあった。
でもこの小学校跡に来て、その成長の骨法は、地元有志のボランタリーな活動に支えられたものなのだ・・・と、わりに得心できるようになった。
帰りぎわ、博物館の売店に「エストニアのジョーク集」という小冊子があったので、これをぱらぱらとめくってみた。
すると、こんな一節があった。
これは、どういうことか。
あんまりと言えば、あんまりではないか。
でも、こんな感じでばかにされていたエストニアは、いまや「電子国家」の模範事例として我々の仰ぎみる存在となっているのだ。
小学校跡を訪れてわずかに進んだ私の理解は、このジョークを経て、再びわからなくなってしまった。
しかし考えてみれば、世の中というのは、もともとよくわからないものである。
わからないままに、私は、タリン発ヘルシンキ行きのフェリーに乗った。
バルト海の上で飲んだビールは旨かった。
そのようにして訪れたエストニア野外博物館(Estonian Open Air Museum)が、結果的には子どもたちの心をストレートに捉えることになった。
子どもたちを運搬するための駕籠車を借りた。よい運動になった |
この博物館は――いや、「博物館」といっても敷地の99%は野外なのだが――18~20世紀のエストニアの農家の暮らしを紹介する施設である。
農場、風車、教会、集会場など、エストニアの人たちが実際に使っていた建造物がそのまま移設され、この場所に集まっている。
「完全再現」とか「リアル」といった形容を飛び越えて、ぜんぶが本物なのである。
「弥生時代?」と一瞬思うが、100年ちょっと前まで実際に使われていたという |
考えてみたら、息子たちとこういう場所に来るのは初めてだ |
古民家の外には、陽光に包まれて編み作業をするおばあちゃんの人形があった。
遠巻きに眺めていると、生きている人にしか見えない。実によくできた人形だ。
・・・と思ったら、本物のおばあちゃんだった。
じっと見ていると、立ち上がり、我々に向かって会釈をされた。これは失礼をした。
おばあちゃんは、この博物館のスーベニアでもある伝統工芸品を編んでいるほか、まばらに訪れるお客さんへのガイド役も兼ねているのであった。
「あなた、日本人?」
「そうです」
「なら、これ知ってるでしょう」と指し示されたのは、
幼児用の歩行器であった。
うーん、まあ、たしかにこういうのも、昔の日本にはあったのかもしれない。
でも私としては、生まれ育った国との共通性をよりダイレクトに感じたのは、
案山子(かかし)であり、
竹馬であった。
まさかエストニアに来て、竹馬で遊ぶことになるとは思わなかったよ。
5歳と2歳の息子はまだ乗れないので、私が手本を示すことになる。おばあちゃんの前では「日本代表」でもある。ここはいい格好をしたい。
でもなにしろ久しぶりなので、すぐに転んでしまう。何度も練習して、やっと10歩を進めるばかり。竹馬は難しい(けどたのしい)という事実を、私は再認識するに至った。
この100年間で、なにもかも変わりすぎではあるまいか
この学校は、1877年、地主の協力によって建てられた。当時エストニアはロシアの支配下にあったので、デザインはすべてロシアン・マナーである。
義務教育の学齢は、10歳から13歳まで。国語(エストニア語とロシア語)、算数、音楽、カトリックの教理問答などが教えられた。
学期は10月に始まり、4月に終わった。春~秋の暖かい時期には、子どもは家業を手伝うのが当然だったのだ。
生徒たちは歩いて通学した。学校から6km以上離れた家の子は学校に泊まった。
学費は無料。ただし、生徒が通学しないと両親に罰金が科せられた。
当時の教師は、無給の職業であった。とはいえ、食い扶持を稼げないことには生きてゆけないので、実質的な給料は校庭で農業を営むことで賄われたという。
教師はまた、地域の牧師や合唱団のマネージャーなどをしばしば兼ねていたという。本来的な意味での名誉職だったんですね。
同博物館によれば、エストニアの識字率は、19世紀末の時点で77パーセント。
UNESCOなどの統計によると、同時期の世界平均は21パーセントという。エストニアの田舎の教育水準は、ものすごく高かったのだ。
このどこまでも牧歌的な風景が、わずか100年余りで仮想通貨やらブロックチェーンやらの用語が飛び交う「電子国家」に化けるというのは、あまりにも指数関数的というか、ちょっと簡単には信じられないぞ、という気持ちが最初はあった。
でもこの小学校跡に来て、その成長の骨法は、地元有志のボランタリーな活動に支えられたものなのだ・・・と、わりに得心できるようになった。
猪肉と鹿肉をおみやげに買った。税関で没収されそうになった |
帰りぎわ、博物館の売店に「エストニアのジョーク集」という小冊子があったので、これをぱらぱらとめくってみた。
すると、こんな一節があった。
エストニア人の父子が、森のなかを馬車で走っていた。
一匹のきつねが、馬車の前を駆け抜けた。
5分後、父親が言った。
「おい、きつねだ」
10分後、息子が言った。
「うん。速かったね」
一匹のきつねが、馬車の前を駆け抜けた。
5分後、父親が言った。
「おい、きつねだ」
10分後、息子が言った。
「うん。速かったね」
これは、どういうことか。
あんまりと言えば、あんまりではないか。
でも、こんな感じでばかにされていたエストニアは、いまや「電子国家」の模範事例として我々の仰ぎみる存在となっているのだ。
小学校跡を訪れてわずかに進んだ私の理解は、このジョークを経て、再びわからなくなってしまった。
しかし考えてみれば、世の中というのは、もともとよくわからないものである。
わからないままに、私は、タリン発ヘルシンキ行きのフェリーに乗った。
バルト海の上で飲んだビールは旨かった。
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