ザ・ベスト・オブ・子連れに優しい街である(ヘルシンキ)
フィンランド滞在中は、移動にお金がかからなかった。
空港から電車に乗って、
市内ではトラム(路面電車)に乗って、
郊外の森までバスで行って、
近くの島までフェリーで行った。
だが、私は金銭を払わなかった。
1円も。1ユーロも。
これはどういうことか。
電車やバスの外壁にしがみついて、不正乗車をしたのか。
フィンランド国王のコネを使って、王族待遇だったのか。
そうではない。
(そもそもフィンランドは王制国家ではない)
私がお金を払わなかった理由。
それは、ベビーカーを携えていたからだ。
そう、ヘルシンキでは、ベビーカー連れの親子は、公共交通機関の運賃が無料なのである。
彼は北京出身の銀行員で、ヘルシンキで開かれる「世界銀行会議」みたいなものに参加しているとのことだった。
2018年の夏は、世界各地で焼けつくような猛暑で、だけど8月のヘルシンキは涼しくて最高だよね、みたいな雑談をした。これにつなげて、例の「ベビーカーがあれば運賃無料」の件に私が触れると、Cさんはたちまち食いついてきた。
「僕もベビーカーを持っている。だから僕も無料ってことか」
「Cさんは出張で来ていると伺いましたが、ベビーカーはありますか」
「いや、ベビーカーは北京にあるんだ。それでは駄目かな」
「担当の係員に問い合わせされてはいかがか」と、私は明言を避けた。
フィンランドもすごいが、中国の銀行員もすごかった。
下調べもせず、ほぼ無計画で到着したのだが、私も息子たちも、まったく退屈しなかった。行き先にも困らなかった。
なかでもヘルシンキ動物園(Korkeasaari Zoo)は、今回の旅行のハイライトだった。
子どもたちは動物よりも遊具やビーチの方に関心を傾けがちだったし、私もむしろ手ざわりのよい海辺の花崗岩を熱心に愛でていたが、ともあれ日が暮れるまでたのしみの持続する場所であった。
意外な拾い物、と言っては失礼かもしれないが、元老院広場の向かいにあるヘルシンキ市立博物館(Helsingin Kaupunginmuseo)は、幼児連れの家族には無上のスポットであった。
ここは本来ヘルシンキの歴史を紹介する博物館なのだが、子ども向けのコーナーが驚くほど充実していて、おまけに入場無料ときている。だからなのか、観光客だけでなく地元民の姿もあって、日本でいう「児童館」的な使い方をされている気配があった。
電車の模型があって、「おままごと」もできて、民族衣装の試着もできる。我が息子たちのハマり方には尋常ならざるものがあり、結局、ここに2日連続で(合計7時間弱も)滞在した。
電車などの公共交通機関が無料。
「児童館」のような施設も無料。
公園の遊具だって充実している。
「道ゆく人びとが子どもに優しい」のが、もはや暗黙の前提となりつつある――そのように贅沢なヨーロッパの環境において、ヘルシンキは、そこからさらに頭ひとつ飛びぬけていた。
これまで訪れたなかで、ザ・ベスト・オブ・子連れに優しい街である、と私は思った。
これは、初日が曇天の雨模様だったからかもしれないし、私がアキ・カウリスマキの熱心なファンだったことも多分にあるだろう。
アキ・カウリスマキというのはフィンランドの映画監督で、日本の小津安二郎などの流れを汲みつつも、ひとたび観たら忘れられない、彼にしか生み出せない独特のスタイルが初期作品からはっきりあって、まあ言ってみれば映画の神さまに愛された天才みたいな人である。
私はカウリスマキの映画はほとんど全部観ていて、大学時代は彼の生活様式を真似て「1日に6本映画を観る」ノルマを自分に課していた。その結果どうなったかというと、大学のセメスター中に1単位も取得できずに物理学科を留年したのだが、それはまた別の話だ。
ともあれ、カウリスマキの作品には、どういうわけか陰気くさい変な顔つきの人ばかり出てくる。だからフィンランドとはそういう国なのだと、私は長らく偏見を持っていたのである。まあ実際に訪れてみたらそうでもなかったのだけれど。
ウィーンに来る前に、私は「世界各地の工場や研究所を訪れ、そのレポートを限られた数の読者(多くても30名ほど)に届ける」ことを職務のひとつとしていた。
訪問先の99%は撮影禁止・録音禁止で、ときにはメモ取りすら許されない。そうした状況にあって、客観と主観を注意深く峻別しつつ、曖昧さのないプロフェッショナルな、それでいて映像的な文章を書き起こす必要があった。
測定装置や工作機械の種類・型番・特長であるとか、セクションごとの作業工程、あるいは従業員の動線などは、最も念入りに観察すべき対象だった。それらを記憶に焼き付けておき、数時間後あるいは数日後の、気力と体力が最も充実したポイントを狙って、一気呵成に初稿を書き上げる。そういう種類の仕事であった。
私は文章を書くことは好きだが、記憶力にはまったく自信がない(ポジティブに言い換えると、忘却力にものすごく自信がある)。
そこで私の講じた工夫は、「訪問先の組織に、来年には転職することが決まりつつある」という仮の設定を自分に信じ込ませることであった。
これは、我ながら効果てきめんだった。すべてを当事者として捉えることで(なにしろ来年からそこで働くわけだから)、私の記憶力は飛躍的に向上した。
元外交官・作家の佐藤優は、外務省でインテリジェンスに従事していた頃の記憶術について「五本の指を記憶すべき重要項に逐次対応させて、一本ずつ折り曲げていく」という常人離れした技を著書で披露していたが、(佐藤氏の足元にも及ばないにせよ)それに似たようなことを私もできるようになった。
自分も相手もどろどろに酔ったなかで得られた情報であっても、爾後、かなりの精度で再現できるようになったのである。
つまり、旅先でメモの類をほとんど取らないかわりに「この土地に、老後に(あるいは数年後に)永住することが決まりつつある」という設定をたたき込むのである。
そうすると、街並みを見る目の解像度・情報処理量が全然違ってくる。私はいまもウィーンという異国の地に住んでいるので、この「設定」はまんざら虚構というわけでもない。
そうした視点でヘルシンキを観察してみると、やはりここはすばらしい街である。日照時間の長い夏の、(おそらく)1年でいちばん良い時期に訪れたことも手伝ってか、どうにも長所ばかりが目に飛び込んでくる。
もちろん真冬の極寒と暗黒も想像する。北欧の人たちが1か月くらい夏休みを取る理由が、この街を歩いているとビビッドに実感できる。この土地で生きしのいでいくには、珠玉の夏を仕事に費やすのは、あまりにもったいないことなのだ。
広大な敷地をあまねく巡ることは当然できなかったが、ヘルシンキ中心部からバスでわずか30分弱のクーシヤルヴィ(Kuusijärvi)というバス停で降りて、同名の湖のほとりを、子どもたちとゆっくり歩いた。
この森の中に分け入れば、すれ違う人の姿はもうどこにもない。
遠くでときおり鳥が鳴くほか、ただひたすら無音の世界である。
妻子から1時間弱の自由を頂戴して、トレイルランをすることにした。
風が涼しくて、ふかふかの土が足に優しい。
走れば走るほど、疲れがすっと抜けていく。
こんな感覚は、ずいぶん懐かしい。いつ以来のことだろうか。
そうだ、忍者のコスプレをして、30kmのレースを走ったとき以来だ。
(⇒ バークレーと私「バークレーのあちこちを走ったこと」)
芋のつるを引っ張るように、記憶が連鎖する不思議な感覚に襲われた。
そして私は、レースを一緒に走ったHiroさんのことをふと思い出した。
あのとき、Hiroさんはまだ「ギター職人の徒弟」に過ぎなかった。
あれから5年。同氏はいまや、押しも押されぬプロのギター職人だ。
私とHiroさんの人生は、その軌跡は、どのような見地からも異なっている。
実際のところ、バークレーを離れて後、Hiroさんには一度も会っていない。
何を見たか。何を考えたか。何を覚えたか。何を恐れたか。何に傷ついたか。
おそらく、それらのすべてについて、共通点よりも相違点の方が多いだろう。
でも私は、一貫してシャイで、多弁を弄さないHiroさんのことが好きだった。
安定した道を捨て、リスクある航路へと舵を取る、静かな彼を尊敬していた。
フィンランドの深い森で、そんなことを私は、ひとりで走りながら思い返していた。
どんなにお金を積んでも手に入らないであろう、それは人生の贅沢な時間であった。
空港から電車に乗って、
市内ではトラム(路面電車)に乗って、
郊外の森までバスで行って、
近くの島までフェリーで行った。
だが、私は金銭を払わなかった。
1円も。1ユーロも。
これはどういうことか。
電車やバスの外壁にしがみついて、不正乗車をしたのか。
フィンランド国王のコネを使って、王族待遇だったのか。
そうではない。
(そもそもフィンランドは王制国家ではない)
私がお金を払わなかった理由。
それは、ベビーカーを携えていたからだ。
そう、ヘルシンキでは、ベビーカー連れの親子は、公共交通機関の運賃が無料なのである。
フェリーのチケット売場。「ベビーカー+おとな=0ユーロ」とある |
中国の銀行員がぐいぐいきた
この話に興味を示したのが、1泊14,900円のアパートホテル「Forenom Apartments」のサウナ(フィンランドにはどこでもサウナがあるという話は本当だった)で知り合ったCさんだ。彼は北京出身の銀行員で、ヘルシンキで開かれる「世界銀行会議」みたいなものに参加しているとのことだった。
2018年の夏は、世界各地で焼けつくような猛暑で、だけど8月のヘルシンキは涼しくて最高だよね、みたいな雑談をした。これにつなげて、例の「ベビーカーがあれば運賃無料」の件に私が触れると、Cさんはたちまち食いついてきた。
「僕もベビーカーを持っている。だから僕も無料ってことか」
「Cさんは出張で来ていると伺いましたが、ベビーカーはありますか」
「いや、ベビーカーは北京にあるんだ。それでは駄目かな」
「担当の係員に問い合わせされてはいかがか」と、私は明言を避けた。
フィンランドもすごいが、中国の銀行員もすごかった。
VR(フィンランド鉄道)のロゴが、日本の「JR」になぜか似ている |
子連れでも行き先に困らない
ヘルシンキには1週間ほど滞在した。日帰りでタリンに行ったのを除けば、実質6日である。下調べもせず、ほぼ無計画で到着したのだが、私も息子たちも、まったく退屈しなかった。行き先にも困らなかった。
なかでもヘルシンキ動物園(Korkeasaari Zoo)は、今回の旅行のハイライトだった。
子どもたちは動物よりも遊具やビーチの方に関心を傾けがちだったし、私もむしろ手ざわりのよい海辺の花崗岩を熱心に愛でていたが、ともあれ日が暮れるまでたのしみの持続する場所であった。
島がまるごと動物園になっているので、敷地内にビーチがある |
特段の営業努力が見られない動物たち(あたりまえか) |
クレーン車のように砂をすくい取る遊具を初めて見た。そして砂場がやたらに広い |
エルクやトナカイなどの角の展示は、北欧の動物園ならでは |
意外な拾い物、と言っては失礼かもしれないが、元老院広場の向かいにあるヘルシンキ市立博物館(Helsingin Kaupunginmuseo)は、幼児連れの家族には無上のスポットであった。
ここは本来ヘルシンキの歴史を紹介する博物館なのだが、子ども向けのコーナーが驚くほど充実していて、おまけに入場無料ときている。だからなのか、観光客だけでなく地元民の姿もあって、日本でいう「児童館」的な使い方をされている気配があった。
電車の模型があって、「おままごと」もできて、民族衣装の試着もできる。我が息子たちのハマり方には尋常ならざるものがあり、結局、ここに2日連続で(合計7時間弱も)滞在した。
乳幼児向けトイレには紙おむつも常備。この「至れり尽くせり感」はどうだ |
1ユーロも払わないのはさすがに申し訳ないので、路面電車のTシャツを買った |
電車などの公共交通機関が無料。
「児童館」のような施設も無料。
公園の遊具だって充実している。
「道ゆく人びとが子どもに優しい」のが、もはや暗黙の前提となりつつある――そのように贅沢なヨーロッパの環境において、ヘルシンキは、そこからさらに頭ひとつ飛びぬけていた。
これまで訪れたなかで、ザ・ベスト・オブ・子連れに優しい街である、と私は思った。
「ムーミン」原作者の名を冠したトーベ・ヤンソン公園。散歩してたら偶然見つけた |
使い古しのおもちゃがストックされていて自由に使える |
子どもたちにとっては天国みたいなものだ(ホテルに戻るのに苦労したけど) |
親子で乗れるユニークなブランコ。これも北欧デザインなのか |
どういうわけか陰気くさい変な顔つきの人ばかり出てくる
そういうわけで、私はすっかりヘルシンキのファンになったのだが、しかしその第一印象は、むしろ「暗く、さびしい、さえない街だな」というものであった。これは、初日が曇天の雨模様だったからかもしれないし、私がアキ・カウリスマキの熱心なファンだったことも多分にあるだろう。
アキ・カウリスマキというのはフィンランドの映画監督で、日本の小津安二郎などの流れを汲みつつも、ひとたび観たら忘れられない、彼にしか生み出せない独特のスタイルが初期作品からはっきりあって、まあ言ってみれば映画の神さまに愛された天才みたいな人である。
私はカウリスマキの映画はほとんど全部観ていて、大学時代は彼の生活様式を真似て「1日に6本映画を観る」ノルマを自分に課していた。その結果どうなったかというと、大学のセメスター中に1単位も取得できずに物理学科を留年したのだが、それはまた別の話だ。
ともあれ、カウリスマキの作品には、どういうわけか陰気くさい変な顔つきの人ばかり出てくる。だからフィンランドとはそういう国なのだと、私は長らく偏見を持っていたのである。まあ実際に訪れてみたらそうでもなかったのだけれど。
幼児シートの位置がずいぶん高い。でも子どもと目の高さが合っていいのかも |
屋台が集まるハカニエミ広場。「ちょっと高ぇな」と口走ったら店員さんが日本人だった |
水を使わない小便器。「イノベー・ション便器」とでも命名すべきか |
旗竿のある建物をよく見かけた。愛国心が強いのか、単純にそういう文化なのか |
「来年には転職することが決まりつつある」
ここで少し話が脱線することをお許しありたい。ウィーンに来る前に、私は「世界各地の工場や研究所を訪れ、そのレポートを限られた数の読者(多くても30名ほど)に届ける」ことを職務のひとつとしていた。
訪問先の99%は撮影禁止・録音禁止で、ときにはメモ取りすら許されない。そうした状況にあって、客観と主観を注意深く峻別しつつ、曖昧さのないプロフェッショナルな、それでいて映像的な文章を書き起こす必要があった。
測定装置や工作機械の種類・型番・特長であるとか、セクションごとの作業工程、あるいは従業員の動線などは、最も念入りに観察すべき対象だった。それらを記憶に焼き付けておき、数時間後あるいは数日後の、気力と体力が最も充実したポイントを狙って、一気呵成に初稿を書き上げる。そういう種類の仕事であった。
私は文章を書くことは好きだが、記憶力にはまったく自信がない(ポジティブに言い換えると、忘却力にものすごく自信がある)。
そこで私の講じた工夫は、「訪問先の組織に、来年には転職することが決まりつつある」という仮の設定を自分に信じ込ませることであった。
これは、我ながら効果てきめんだった。すべてを当事者として捉えることで(なにしろ来年からそこで働くわけだから)、私の記憶力は飛躍的に向上した。
元外交官・作家の佐藤優は、外務省でインテリジェンスに従事していた頃の記憶術について「五本の指を記憶すべき重要項に逐次対応させて、一本ずつ折り曲げていく」という常人離れした技を著書で披露していたが、(佐藤氏の足元にも及ばないにせよ)それに似たようなことを私もできるようになった。
自分も相手もどろどろに酔ったなかで得られた情報であっても、爾後、かなりの精度で再現できるようになったのである。
「老後に永住することが決まりつつある」
この前職の成功体験は、拙ブログで旅行記を書くときにも役立っている。つまり、旅先でメモの類をほとんど取らないかわりに「この土地に、老後に(あるいは数年後に)永住することが決まりつつある」という設定をたたき込むのである。
そうすると、街並みを見る目の解像度・情報処理量が全然違ってくる。私はいまもウィーンという異国の地に住んでいるので、この「設定」はまんざら虚構というわけでもない。
そうした視点でヘルシンキを観察してみると、やはりここはすばらしい街である。日照時間の長い夏の、(おそらく)1年でいちばん良い時期に訪れたことも手伝ってか、どうにも長所ばかりが目に飛び込んでくる。
もちろん真冬の極寒と暗黒も想像する。北欧の人たちが1か月くらい夏休みを取る理由が、この街を歩いているとビビッドに実感できる。この土地で生きしのいでいくには、珠玉の夏を仕事に費やすのは、あまりにもったいないことなのだ。
それにしてもこのビールは高すぎやしないか
とはいえ、フィンランドへの移住をためらわせる要素も、ないわけではない。
その筆頭が、ビールの値段の高さだ。
その税額は、1リットルあたり、実に1.67ユーロ。アメリカやオーストリアなら、ほとんどビール自体の(税込みの)価格帯である。
「アメリカの国会議員が、次の選挙に落ちるための簡単な方法がひとつある。ビールの課税を強化することだ」というのは留学時代に聞いたジョークだが、これはフィンランドでは通用しないようである。むしろ、さらに税率を上げる動きがあるとの報道すら出ている。
私のフィンランド移住計画は、ここに至って、急速な萎縮を見せてきた。
・・・と思いきや、散歩中にたまたま巡り合わせた中華系食品店で、
大好きなチンタオビール(青島啤酒)が、まさかの1.2ユーロで売られていたのである。
私のフィンランド移住計画は、ここにきて、再び勢いを取り戻してきた。
フィンランドもすごいが、中国の食品店もすごかった。
(このお店が何らかの然るべき法的プロセスを免れているのではないかという疑念も抱かないではないが、ここでは深く追求しないことにしたい)
ヘルシンキ観光の定番、スオメンリンナ(Suomenlinna)島にもフェリーで行った |
元来は18世紀に築かれた(対ロシア帝国の)海防要塞だが、いまでは平和な行楽地だ |
2歳の息子は大砲に著しい関心を寄せている |
地下塹壕もそのまま遺っている |
島内には一箇所だけ砂のビーチがある。ここで過ごした時間がいちばん長かった |
ドイツ海軍のUボートの前身、潜水艦ヴェシッコ号(Submarine Vesikko) |
船内にも入れた。米国&西ドイツの傑作映画「眼下の敵」(1957年)を思い出す |
深い森の中を走って、ギター職人の成功を祝福する
今回のヘルシンキ旅行で個人的に最も心を奪われた場所、それは、シポーンコルピ国立公園(Sipoonkorpi National Park)である。広大な敷地をあまねく巡ることは当然できなかったが、ヘルシンキ中心部からバスでわずか30分弱のクーシヤルヴィ(Kuusijärvi)というバス停で降りて、同名の湖のほとりを、子どもたちとゆっくり歩いた。
森の湖に来ても、子どもたちの関心事はやはり砂遊びであった |
ほんの少し歩いただけで、もうこんな風景だ |
石の上で座禅を組む。だが奥さんに撮影してもらっている時点で煩悩満載ではある |
この森の中に分け入れば、すれ違う人の姿はもうどこにもない。
遠くでときおり鳥が鳴くほか、ただひたすら無音の世界である。
妻子から1時間弱の自由を頂戴して、トレイルランをすることにした。
風が涼しくて、ふかふかの土が足に優しい。
走れば走るほど、疲れがすっと抜けていく。
こんな感覚は、ずいぶん懐かしい。いつ以来のことだろうか。
そうだ、忍者のコスプレをして、30kmのレースを走ったとき以来だ。
(⇒ バークレーと私「バークレーのあちこちを走ったこと」)
芋のつるを引っ張るように、記憶が連鎖する不思議な感覚に襲われた。
そして私は、レースを一緒に走ったHiroさんのことをふと思い出した。
あのとき、Hiroさんはまだ「ギター職人の徒弟」に過ぎなかった。
あれから5年。同氏はいまや、押しも押されぬプロのギター職人だ。
私とHiroさんの人生は、その軌跡は、どのような見地からも異なっている。
実際のところ、バークレーを離れて後、Hiroさんには一度も会っていない。
何を見たか。何を考えたか。何を覚えたか。何を恐れたか。何に傷ついたか。
おそらく、それらのすべてについて、共通点よりも相違点の方が多いだろう。
でも私は、一貫してシャイで、多弁を弄さないHiroさんのことが好きだった。
安定した道を捨て、リスクある航路へと舵を取る、静かな彼を尊敬していた。
フィンランドの深い森で、そんなことを私は、ひとりで走りながら思い返していた。
どんなにお金を積んでも手に入らないであろう、それは人生の贅沢な時間であった。
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