離婚した国の穏やかな首都(ブラチスラバ)

 ウィーンに来て最初に訪れた「外国」が、スロバキアであった。

 スロバキアの首都・ブラチスラバは、ウィーンから電車でわずか1時間。ハンガリーのショプロンを訪問したときにも思ったが、これだけ近いと、外国旅行という気構えがほとんどいらない。この気楽さは、ヨーロッパに住んではじめて知る感覚だ。




離婚した国

勤務先の同僚に、Jさんというスロバキア人がいる。

 Jさんはかなり偉い人で(ある省庁の事務次官的な役職を経験)、仕事の知識も人脈も比類なきレベルにあるのだが、驕り高ぶるようなところがまったくない。いつもしょうもない冗談ばかり言っている。そして私によくビールを奢ってくれる。好きになる要素しかない人なのである。

 Jさんはチェコスロバキアに生まれた。ご存知のように、この国はもう存在しない。1993年に、俗にビロード離婚と呼ばれる無血革命のような出来事があって、現在のチェコとスロバキアに分離することになった。

 「社会主義はよかった」というのがJさんの口癖だ。「小学校の教育水準は、ヨーロッパのどの国にも負けてなかった。みんな算数もよくできた。でも社会主義が解体してからは駄目になっちゃった」

 「技術も芸術も、おいしいところは全部チェコにあるんだよ。スロバキアには山しかない。いやあ、離婚するんじゃなかったよ」と彼は笑いながら言う。

 でもチェコ人とスロバキア人は、特に仲が悪いわけではないようだ。言語も似ているし、ロシアやドイツに翻弄された歴史的シンパシーもある。だから「いろいろあって離婚したけど、いまでもよく連絡を取り合う元夫婦」みたいな関係らしい。

 「それは羨ましい。うちなんて隣の国からミサイルが飛んでくるからね」としみじみ言ったのは、韓国人の同僚であった。


1回目の訪問(2017年10月:旧市街)

オーストリアの国鉄ÖBBは、「BratisLover」という周遊チケットを発行している。

 ブラチスラバが好き ⇒ ブラチスLover。なんだか職場で煙たがられているおじさんの駄洒落みたいなひどい名称だけど、ウィーン~ブラチスラバ間の鉄道とブラチスラバ市内のバス等が4日間乗り放題で16ユーロという、なかなかに強力なチケットである。我が家はウィーン中央駅の券売機でこれを買って、意気揚々とブラチスラバに出発した。

 ブラチスラバ中央駅(Bratislava Hlavná Stanica)に降りれば、あなたはすぐに、外国を訪れたという実感を得られるだろう。身もふたもない表現で言ってしまえば、薄汚れているのだ。

 人々の服装も、どうも垢抜けない。エレベーターもエスカレーターもないので、ベビーカーを運ぶにも骨が折れる。「社会主義」という言葉が頭に浮かぶ。いや、決めつけはよくない、とすぐに思い直す。

 駅前から93番のバス(または1番の路面電車)に乗れば、10分ほどでブラチスラバの中心部に到着する。ブラチスラバの見どころは旧市街にある、と誰に尋ねても同じ回答だったので(前述のJさんは「逆に言うとそこしか見るところがない」と皮肉なコメントを添えたが)、素直に旧市街を歩くことにする。


スロバキアの首都・ブラチスラバ
あいにくの雨だったが、観光客は結構いた

ブラチスラバの電線と靴
電線に靴が干してある。米国バークレーでも見かけた光景だ

スロバキア産の生姜や羊乳チーズなどが売っている、ブラチスラバの自動販売機
道端の自販機。スロバキア産の生姜や羊乳チーズなどが売っていた

スロバキア・ブラチスラバのスーパーマーケット
物価はやはり安い。パン1個が0.07ユーロ(10円くらい)


 旧市街はあまり広くなく、子連れの散歩にはちょうどよかった。ミハエル門旧市庁舎フラヴネー広場聖エリザベス教会(ブルーチャーチ)といった定番のコースを巡って、一日はゆっくりと過ぎていった。

 ブラチスラバの旧市街は、ウィーンとは少し趣の異なる端正な中世の街並みである。といっても、歴史の財産にのみ寄りかかっている風ではない。モダンな自然食レストランもあれば、小さなライブハウスを兼ねた洒脱なカフェバーもある。地に足のついた穏やかさがあるのだ。

 しかし、私がブラチスラバで最も印象に残ったのは、レストランのウェイターの「しゃべらなさ」であった。我々はこの街でランチと軽食をとったのだが、どちらの店のウェイターも、ほとんど一言も口にしない。「いらっしゃいませ」もないし、「ご注文は」もない。無言でこちらに近づいてきて、無言で頷いて去ってゆく。そういうスタイルなのだ。
 
 これは差別されているのかな、と一瞬思ったけれど、そんな感じでもない。他の客でも同じ態度だ。発話に障害のある人なのかな、とも考えたが、ウェイター同士では(ごくわずかに)言葉を交わしているようだ。

 ビールを頼んだら、1歳の息子の前にジョッキを置かれる。「いやいや、それは私のだよ」と言ったら、片目をつぶってにやりと笑う。そのユーモアもどこまでも無言である。シャイという言葉だけでは形容しきれないような、スロバキア人のその妙な癖が、私は実のところ好きになってしまった。


スロバキア・ブラチスラバの聖エリザベス教会(ブルーチャーチ)
聖エリザベス教会(ブルーチャーチ)は一見の価値あり


2回目の訪問(2018年3月:ブラスチラバ動物園)

次にブラチスラバを訪れたのは、ようやく暖かくなったウィーンで、レストランがいそいそとテラス席を出しはじめる、3月上旬の土曜日のことだった。

 お天道様もひさしぶりに顔を見せたし、それならブラチスラバでも行こうか、と起き抜けに決めた。思い立ったその日にすぐ出発できるのが、ブラチスラバ旅行のたのしさである。

 今回の目的地は、ブラチスラバ動物園(Bratislava Zoo)だ。

 
スロバキアのブラチスラバ動物園
ブラチスラバ中央駅からバスで20分弱の距離にある


 動物園に行くのは、子どものためでもあり、また私自身のためでもある。そう、私は動物園が大好きなのだ。

 社会人1年生の頃、上野動物園の近くに住んでいた私は、そこでよく無為の時間を過ごしていた。年間パスポートまで持っていた。

 私のお気に入りはカピバラだった。当時、上野動物園にはカピバラが2匹いた。「タン」と「ソク」。たしかにカピバラの足は短いが、それにしてもひどいネーミングだった。

 「タン」と「ソク」の挙動をぼおっと眺めていると、仕事の悩みが次第に重みを失ってゆくような心地よさがあった。残業とか上司とか、稟議書とか定例会議とか、カピバラの世界ではまったく意味をなさないのだ。私は、自分の心のソフトな部分をカピバラに預け、そうすることで煩悶の時期をしのいでいた・・・。


 話が脱線した。

 上野動物園の頃から12年が経って、いま私は、子どもを連れてブラチスラバ動物園に来ているのだった。

 この動物園の良いところは、まず安いことだ。10月~3月に適用される「冬料金」だと、おとな5.5ユーロ、こども4ユーロ。私と奥さんと4歳の息子の合計でも15ユーロで(3歳未満は無料)、これはシェーンブルン動物園@ウィーンのおとな1人分=18.5ユーロよりも安い。

 もちろんシェーンブルン動物園はすばらしい動物園だが、ことコストパフォーマンスにおいては、これは圧倒的にブラチスラバ動物園の勝ちである。


ブラチスラバ動物園の入場料金表
ブラチスラバ動物園の入場料金表。わりに細かく設定されている

ブラチスラバ動物園のガチャガチャ
日本製の「ガチャガチャ」がこんなところにもあった


 訪問者の数も、あまり多くない。いま調べてみたら、1年間の入場者数は約30万人。これは、上野動物園の「1ヶ月」の入場者数と同じくらいだ。

 でも我々が訪れたときには、午後2時という遅い時間にもかかわらず、入り口でかなり長い行列ができていた。

 見ると、きっぷ売場が1つしかない。それでいて窓口の人は焦ることなく、悠久の時を感じさせる手つきで、きっぷをもぎっている。「社会主義」という言葉が、また頭に浮かんだ。


ブラチスラバ動物園の熊

ブラチスラバ動物園のペリカン


 
 ブラチスラバ動物園は、縦に長く伸びた形をしていて、思いのほか広大だ。その面積は、上野動物園の約7倍(96ヘクタール)。

 郊外にあって、緑が豊かで、縦長で、かなり広い。土地全体が傾斜していて、歩き倒すには体力が要る。このあたり、台北市立動物園と共通点が多いな、という印象を受けた。両方の動物園に行かれたことのある方は(あまりいないかもしれないが)、おそらく頷かれるのではないだろうか。

 しかし、台北市立動物園と比べると、ブラチスラバ動物園の訪問者はずいぶん少ない。より正確に言えば、動物を見ている人の数が少ない。

 というのは、敷地内には充実した遊具スペースがあって、大半の子連れ客はそこで長い時間を過ごすのだ(我が家もそうだった)。子どもたちにとっては、珍しい動物よりも遊具の方がずっと魅力的なのだろう。

 でもそのおかげというか、動物をゆっくり眺めるには適している。なにせ、レッサーパンダの柵の周りに誰もいなかったりするのだ。日本ではちょっと考えられない状況である。まあ、レッサーパンダにとってはその方が気楽でいいのかもしれない。千葉市動物公園の「風太くん」も、ブラチスラバ動物園の執務環境(?)を知ったら羨ましく思うかもしれない。

 地球の裏側で、風太くんのことを考える私がいた。

 
ブラチスラバ動物園のレッサーパンダ
あまり注目されないレッサーパンダ

ブラチスラバ動物園
動物よりも遊具に惹かれる子どもたち

ブラチスラバ動物園で買ったカピバラのマグネット
カピバラのマグネットを1ユーロで買った(実物は見つけられなかった)


ブラチスラバ is good

スロバキアは、所詮は地味な国である。

 その首都のブラチスラバも、やはり地味な街である。駄菓子にたとえるなら、「きなこ棒」のような立ち位置か。「ぷくぷく鯛焼き」のウィーンに比べると、どうしても寂しさは隠せない。

 けれども、きなこ棒にはきなこ棒の魅力がある。ぷくぷく鯛焼きにはない、捨てがたい素朴な味わいがある。10円だからといって、ばかにしてはいけないのである。

 遠路はるばる、鯛焼き目当てで訪れたとしても、片道1時間の日帰り旅行で、きなこ棒を味わうのも悪くない。

 ふんだんな甘味に飽きたら、ぜひご賞味あれ。


スロバキアの首都・ブラチスラバ

コメント