ヒトラーが愛した街は、皆が愛する街だった(リンツ)
2歳の息子は、アドルフ・ヒトラーと同じ誕生日である。
ウィーンに来てから、そのことを知った。ご存じの方も多いと思うが、アドルフ・ヒトラーは、オーストリア出身でありながら、ナチス・ドイツを率いて、オーストリアを半ば強制的に併合(アンシュルス)させた人である。
ナチスに関する話題は、だからいまでも非常にセンシティブだ。オーストリア北西部にあるヒトラーの生家は、2年前に政府が取り壊すことに決まった(ネオナチによる聖地化を防ぐため)のだが、今年になって「やはり保存されることになった」との報道が出ている。
また、ドイツでは「18」という数字がタブー視されていて(アルファベットの1番目と8番目はAとHで、Adolf Hitlerを連想させるから)、「18回も洗濯できます!」と表記したP&Gの洗剤が販売停止に追い込まれたこともあったという。
ウィーンに暮らしていても、街中を注意深く観察していると、ふと「無言の配慮」に気づくことがある。そういえば私の勤める国際機関のビルでは、上層階エレベーターのボタンは19階からはじまる・・・というのは、ちょっと考えすぎかもしれないが。
2か月前、幼稚園で息子の誕生日会を催したときも、「あっ、この日は・・・」と気づいた向きがあったに違いない。といって、当方から積極的に話題にするのもためらわれる。逆卍の印をプリントした幼児服などを着せていったら(持ってないけど)、それこそ放校処分になりかねない。なかなかに扱いが難しいのである。
生家から引っ越したのち、母親のクララが亡くなるまで、彼の10代とほぼ重なる9年間だ。この街の思い出はヒトラーにとって特別なものであったようで、ナチス総統となってからも「リンツを理想都市に改造するのだ」としばしば上機嫌に語っていたらしい。
ヒトラーが愛した街、リンツ。
ヒトラーと同じ誕生日の、私の息子。
ヒトラーとリンツと、息子と私。
この4者がいま、円環構造となってゆっくりと回転をはじめる。
これはやはり、リンツを訪れないわけにはいかないのであった。
そんな私にとって、リンツといえばやはりモーツァルトの交響曲第36番「リンツ」である。敷居が低いのに奥行きの深いこの曲を、長きにわたって愛聴してきた(好きな録音は、あまりに王道で恐縮だが、カール・ベーム指揮のベルリン・フィル)。
小説家の開高健は、モーツァルトを評して「罪深き人間たちに神が与えた気まぐれの救い」といった意味のことを記した。実にそのとおりだと思う。1783年、モーツァルトはこの交響曲を3日で書き上げたという。3日で作られた曲が、それからずっと、無数の人たちの心を慰め、無形の善なる影響を与えてきたのだ。
そんなリンツに、出かけてみる。
「ウィーンから電車で1時間半だし、とりあえず行ってみるか」という気楽さで。
このカードを提示すれば、市内の電車・バスが無料となり(登山鉄道を含む)、約10カ所の博物館・美術館が無料になり、その他多くの施設が割引となり、さらにはレストランやカフェで使える5ユーロ分のクーポン券もついてくる。特典満載のカードなのである。
我々もこのカードを大いに活用した。レントス美術館では息子がいきなり絵画にタッチして即座に自主退場となったが(目当てのエゴン・シーレは2秒しか鑑賞できず)、アルス・エレクトロニカ・センター(AEC)は親子で長時間たのしめる優れた科学博物館であった。
あなたがもし1日だけリンツに滞在するのであれば、そして子連れの旅行者であれば、AECへの訪問を強くお薦めしたい。前述のリンツカードがあれば入場無料だ。
我々が訪れたときは宇宙の企画展をやっていて、5歳の息子は館内の上映ホールで3D眼鏡をつけて太陽系第三惑星の仮想旅行をたのしんだ。彼にとっては人生初の3D体験だったが、わりに抵抗なく受け入れた様子。そういえば私が初めて観た3D映画は「キャプテンEO」で、当時は8歳くらいだったが、ひたすら怖かった記憶だけがある。これはやはりジェネレーション・ギャップというものか、いや単純に映像コンテンツの性質の違いか。
いつものように、アパートメントホテルに泊まった。easyapartmentsという会社のサイトで見つけた、4人分で1泊150ユーロの部屋だ。2LDKで約150m2の広さ。ベッドが5台もあって、子どもたちとかくれんぼをするにも最適だった(新しい宿に来ると、いつも最初にかくれんぼをするのだ)。
ここはリンツ中央駅の南側にあって、どのような見地からも観光の中心地とは言いがたい。しかし、最寄りのUnionkreuzung駅から路面電車に乗れば、10分弱で中央広場(Hauptplatz)まで辿り着ける。ウィーンに劣らず、リンツもまた交通の便が良い街なのだ。
先ほどアパートメント「ホテル」と書いたが、雰囲気はむしろ日本の「団地」に近い。旅行者らしき人は見かけない。我々以外の誰もが正真正銘(Genuine)の生活者だ。複数の団地がおむすび状に連結していて、内側のスペースが共用の物干し場と児童公園になっている。日常感がまる出しというか、おかげでリンツ住民とほとんど一体化したような時間を過ごせた。
ここに滞在して気がついたのは、「リンツはウィーンに輪をかけて安全だ」ということだ。1階下の家族はいつも玄関のドアが開いたままだったし、共用の公園では幼児が一人で遊んでいたりする(10分ほどしてやっと父親らしき人物が現れた)。ずいぶん呑気というか、油断しすぎというか、まあ平和である。思いがけず「古き良き昭和の団地」に邂逅した気になるが、でも我々のほかにアジア人はいない。よく見かけるのはムスリムの人たちだ。
ヒジャブで顔を覆った主婦が、年季の入ったペルシャ絨毯を洗濯ロープに吊って、スプレーで液体を吹きかけたりして手洗いをしている。息子たちの砂場遊びの相手に飽きた私は、彼女の作業をぼおっと眺める。ペルシャ絨毯を洗うのは難しそうだ。近所のバプテスト教会から、讃美歌が聞こえてくる。頭の中がゆっくり漂白されてゆく。「これが平和だ」と、私は思う。いつのまにか昼寝をしている。ヒトラーと同じ誕生日の2歳児から顔面に砂をかけられて目が覚める。そうだ、これが平和なのだ。手のひらで顔をこすりながら、私はまた思う。
ウィーンに来てから、そのことを知った。ご存じの方も多いと思うが、アドルフ・ヒトラーは、オーストリア出身でありながら、ナチス・ドイツを率いて、オーストリアを半ば強制的に併合(アンシュルス)させた人である。
ナチスに関する話題は、だからいまでも非常にセンシティブだ。オーストリア北西部にあるヒトラーの生家は、2年前に政府が取り壊すことに決まった(ネオナチによる聖地化を防ぐため)のだが、今年になって「やはり保存されることになった」との報道が出ている。
また、ドイツでは「18」という数字がタブー視されていて(アルファベットの1番目と8番目はAとHで、Adolf Hitlerを連想させるから)、「18回も洗濯できます!」と表記したP&Gの洗剤が販売停止に追い込まれたこともあったという。
ウィーンに暮らしていても、街中を注意深く観察していると、ふと「無言の配慮」に気づくことがある。そういえば私の勤める国際機関のビルでは、上層階エレベーターのボタンは19階からはじまる・・・というのは、ちょっと考えすぎかもしれないが。
2か月前、幼稚園で息子の誕生日会を催したときも、「あっ、この日は・・・」と気づいた向きがあったに違いない。といって、当方から積極的に話題にするのもためらわれる。逆卍の印をプリントした幼児服などを着せていったら(持ってないけど)、それこそ放校処分になりかねない。なかなかに扱いが難しいのである。
ヒトラーとリンツ
かつてヒトラーは、リンツに住んでいた。生家から引っ越したのち、母親のクララが亡くなるまで、彼の10代とほぼ重なる9年間だ。この街の思い出はヒトラーにとって特別なものであったようで、ナチス総統となってからも「リンツを理想都市に改造するのだ」としばしば上機嫌に語っていたらしい。
ヒトラーが愛した街、リンツ。
ヒトラーと同じ誕生日の、私の息子。
ヒトラーとリンツと、息子と私。
この4者がいま、円環構造となってゆっくりと回転をはじめる。
これはやはり、リンツを訪れないわけにはいかないのであった。
ヒトラーが住んでいた家を訪ねた(写真中央)。当時のまま、普通に現役のアパートだった |
モーツァルトとリンツ
リンツに縁のある音楽家の筆頭はブルックナーだろう。でもこの人の音楽は、正直なところ、私の理解力を超えている。先日、ウィーン楽友協会でサイモン・ラトル指揮のベルリン・フィルによる交響曲第9番を聴いたが、「緻密な演奏だ」という感想と「お腹が減ったな」という気持ちが3:7くらいで心を占めた。私の耳はあまり成熟していないのである。そんな私にとって、リンツといえばやはりモーツァルトの交響曲第36番「リンツ」である。敷居が低いのに奥行きの深いこの曲を、長きにわたって愛聴してきた(好きな録音は、あまりに王道で恐縮だが、カール・ベーム指揮のベルリン・フィル)。
小説家の開高健は、モーツァルトを評して「罪深き人間たちに神が与えた気まぐれの救い」といった意味のことを記した。実にそのとおりだと思う。1783年、モーツァルトはこの交響曲を3日で書き上げたという。3日で作られた曲が、それからずっと、無数の人たちの心を慰め、無形の善なる影響を与えてきたのだ。
そんなリンツに、出かけてみる。
「ウィーンから電車で1時間半だし、とりあえず行ってみるか」という気楽さで。
すばらしきリンツカード
リンツ観光では、市当局が発行するリンツカードを大いに活用した。3日間有効のカードの定価は30ユーロだが、リンツ中央駅のÖBB窓口で鉄道チケットを提示すれば25ユーロに割引となる(ドイツ鉄道のチケットでもオーケーだった)。このカードを提示すれば、市内の電車・バスが無料となり(登山鉄道を含む)、約10カ所の博物館・美術館が無料になり、その他多くの施設が割引となり、さらにはレストランやカフェで使える5ユーロ分のクーポン券もついてくる。特典満載のカードなのである。
我々もこのカードを大いに活用した。レントス美術館では息子がいきなり絵画にタッチして即座に自主退場となったが(目当てのエゴン・シーレは2秒しか鑑賞できず)、アルス・エレクトロニカ・センター(AEC)は親子で長時間たのしめる優れた科学博物館であった。
あなたがもし1日だけリンツに滞在するのであれば、そして子連れの旅行者であれば、AECへの訪問を強くお薦めしたい。前述のリンツカードがあれば入場無料だ。
我々が訪れたときは宇宙の企画展をやっていて、5歳の息子は館内の上映ホールで3D眼鏡をつけて太陽系第三惑星の仮想旅行をたのしんだ。彼にとっては人生初の3D体験だったが、わりに抵抗なく受け入れた様子。そういえば私が初めて観た3D映画は「キャプテンEO」で、当時は8歳くらいだったが、ひたすら怖かった記憶だけがある。これはやはりジェネレーション・ギャップというものか、いや単純に映像コンテンツの性質の違いか。
手をつなぐとスピーカーの音が鳴る。人の身体は伝導体だと得心する仕掛け |
「科学とアートの融合」を謳うだけあって、全体に展示のセンスが良い |
登山鉄道に乗る
滞在2日目は、ペストリンクベルク鉄道(Pöstlingbergbahn)に乗って山上の巡礼教会を訪れた。ペストリンクベルク鉄道は、車輪とレールの摩擦で駆動・制動させる粘着式(Adhesion)鉄道のうち、ヨーロッパで最も急勾配であるという(最大勾配116‰)。
こういう話を聞いてしまっては、乗らないわけにはいかないだろう。運賃は(市街地から山頂まで)往復6.3ユーロ。たかだか20分程度の乗車時間にしては結構高いが、リンツカードを使えば無料である。
結論としては、事前に予想したほど「急勾配、ヤバイ」とはならなかった。数年前に乗った(80‰級の勾配が続く)箱根登山鉄道の方が、むしろ「天下の嶮」を登るスリルがあったように思う。
まあこれは、経験を重ねて驚きを感じる能力が摩耗した大人の一意見であって、子どもたちにとっては胸躍る新鮮な体験だ。「お山をどんどん登っていくね」「大変だね」と口々に言うのであった。
まあこれは、経験を重ねて驚きを感じる能力が摩耗した大人の一意見であって、子どもたちにとっては胸躍る新鮮な体験だ。「お山をどんどん登っていくね」「大変だね」と口々に言うのであった。
始発駅はリンツ中央広場(Hauptplatz)にある |
小さな山を、どんどん登ってゆく |
終点・ペストリンクベルク駅。標高519メートルとある |
山上から臨むリンツの街並み |
ペストリンクベルク巡礼教会(Pöstlingbergkirche) |
聖水を一瓶買った(0.5ユーロ) |
教会前で露店を開くクロアチア赤十字(Hrvatski Crveni Križ)。ここで昼食を取った |
山麓にあるリンツ動物園(Zoo Linz)にも行ってみた |
園内にあったパワーストーンのガチャガチャ。ありがたみが薄れはしないか |
このロバは、1分後に激しい交尾をした |
リンツの団地に泊まる
ウィーンからのリンツ旅行は日帰りでも十分だ。でも我々はあえて3日ほど滞在した。いつものように、アパートメントホテルに泊まった。easyapartmentsという会社のサイトで見つけた、4人分で1泊150ユーロの部屋だ。2LDKで約150m2の広さ。ベッドが5台もあって、子どもたちとかくれんぼをするにも最適だった(新しい宿に来ると、いつも最初にかくれんぼをするのだ)。
ここはリンツ中央駅の南側にあって、どのような見地からも観光の中心地とは言いがたい。しかし、最寄りのUnionkreuzung駅から路面電車に乗れば、10分弱で中央広場(Hauptplatz)まで辿り着ける。ウィーンに劣らず、リンツもまた交通の便が良い街なのだ。
先ほどアパートメント「ホテル」と書いたが、雰囲気はむしろ日本の「団地」に近い。旅行者らしき人は見かけない。我々以外の誰もが正真正銘(Genuine)の生活者だ。複数の団地がおむすび状に連結していて、内側のスペースが共用の物干し場と児童公園になっている。日常感がまる出しというか、おかげでリンツ住民とほとんど一体化したような時間を過ごせた。
ここに滞在して気がついたのは、「リンツはウィーンに輪をかけて安全だ」ということだ。1階下の家族はいつも玄関のドアが開いたままだったし、共用の公園では幼児が一人で遊んでいたりする(10分ほどしてやっと父親らしき人物が現れた)。ずいぶん呑気というか、油断しすぎというか、まあ平和である。思いがけず「古き良き昭和の団地」に邂逅した気になるが、でも我々のほかにアジア人はいない。よく見かけるのはムスリムの人たちだ。
ヒジャブで顔を覆った主婦が、年季の入ったペルシャ絨毯を洗濯ロープに吊って、スプレーで液体を吹きかけたりして手洗いをしている。息子たちの砂場遊びの相手に飽きた私は、彼女の作業をぼおっと眺める。ペルシャ絨毯を洗うのは難しそうだ。近所のバプテスト教会から、讃美歌が聞こえてくる。頭の中がゆっくり漂白されてゆく。「これが平和だ」と、私は思う。いつのまにか昼寝をしている。ヒトラーと同じ誕生日の2歳児から顔面に砂をかけられて目が覚める。そうだ、これが平和なのだ。手のひらで顔をこすりながら、私はまた思う。
コメント