地獄のような天国(フエルテベントゥラ島)
かつて、日照時間と自殺率の関係について調べたことがある。
調べた結果は、「日照時間の少ない国は、自殺率が高い。これは統計的に有意である」というものだ(⇒ バークレーと私「天気と自殺の関係について考えたこと」)。記事を書いたのはもう5年前のことだが、いまウィーンに滞在する身となって、ひさしぶりにそのことを思い出している。
そう、冬のウィーンは、ほとんどいつも曇天なのだ。今年はどうやら暖冬らしいが(去年はドナウ川が凍結したらしいが)、それでも氷点下の日々は続く。雨も多いし、雪も多い。夕方の4時~5時台には、もう外は真っ暗である。
このような環境で暮らすのは、考えてみれば、私の人生で前例のないことだ。自殺願望、とまではいかないが(WHOによれば、2015年時点でオーストリアの自殺率は183ヵ国中27位との由)、ハッピーな気持ちを維持するために、いままでよりも主体的な努力が求められる実感はたしかにある。
そこで私が到達した考えは、「ここから逃げよう」ということだ。ウィーンは美しく住みよい街である。でもそれはそれとして、暖かく、陽光に恵まれた場所へ、ここではないどこかへ(一時的に)逃げよう、と。そして私は妻の説得に成功した。日光への渇望を感じていたのは私だけではなかったのだ。
旅行とはしばしば逃避行動のパラフレーズである。つまり我々は、ここに正しく旅行の本質を見出したのである。
そういうわけで、地中海から一旦離れて、針路を南にとって(より正確には南西にとって)目に留まったのが、スペイン領カナリア諸島であった。
カナリア諸島は大きく7つの島から成っている。そのひとつ、フエルテベントゥラ島を選んだ理由は特にない。強いて言えば、出発の予定日(2月初旬)にたまたまウィーンから直行便が出ていたというだけだ。
正直なところ、私はいままでフエルテベントゥラ島という名前すら聞いたことがなかった。ところが、職場の同僚――ソ連生まれのおっさんと、チェコスロバキア生まれのおっさん――と喫茶店でだべっていた際に、なんとなしに話をしてみると、彼らはフエルテベントゥラ島について実によく知悉しているのであった。
彼らの指摘は、主に以下のようなものであった。
そして実際に訪れてみると、本当にそのとおりの場所だったのである。
空港を出ると、道路はすぐに広大な砂漠に呑み込まれる。
私はこれまで、米国コロラド州、サウジアラビア、クウェートの砂漠地帯に行ったことがある。つまり今回は人生で4度目の砂漠なのだが、その世紀末感(マッドマックス感、あるいは北斗の拳感と言い換えてもよい)において、フエルテベントゥラ島の砂漠は飛び抜けていた。
砂漠というより「土漠」に近い、ところどころ黒茶けた不毛な荒野。いまにも死につつあるように見える灰褐色の灌木。強風に巻き上がる砂煙。遠くに聳える裸の山々。
観光地に来たつもりが、いつのまにか地獄でドライブしていた。そう錯覚したほどである(少し誇張あり)。
そのような砂漠の中を1時間ほど運転して(そういえば信号がほとんど無かった)、島の北端にあるコラレホの町に入る。すると風景は一転して、リゾートの賑わいに包まれる。
道幅も急に狭くなって、一方通行が複雑に絡まりあう路上で駐車スペースを見つけるのは至難の業である。こんなに土地が広いんだから、もうちょっと道路を拡げてくれたっていいじゃないか・・・などと愚痴をこぼしながら、運よく無料駐車場に空きを見つける。
車を停めて町を歩けば、あとはもう愉快なことばかりだ。ウィーンであれほど切望した太陽の光は、ここでは無限に気前よく降り注ぐ。海が近いのに、湿度が低くて過ごしやすい。ご機嫌な人々が、ご機嫌なスペイン語で、ご機嫌に挨拶を交わす(¡Hola!)。海老と蛸のパエリアも、カナリア産ポテトの焼き物も、ソードフィッシュのソテーも、どれも無上のおいしさだ。
気候が快適で、人々がご機嫌で、食べ物がおいしい場所のことを、何と呼ぶのだったか。
そう、天国である。我々は地獄をドライブして、いま天国に到着したのである。
ここはわりに広い島なので(沖縄本島の1.3倍くらい)、最初は車であちこち移動しようと思っていた。でも結局は、コラレホ(Corralejo)の周辺と、エル・コティージョ(El Cotillo)という静かな町と、コラレホの港からフェリーで行けるロボス島(Isla de Lobos)という無人島の3箇所にしか足を運ばなかった。
というのは、コラレホの居心地があまりに良すぎたからだ。島の南部にはオアシス・パークという巨大な動物園があって、子連れ旅行にお薦めという前評判は聞いていた。でも息子たちは、ホテル(「Corralejo Center, La Oliva」というアパートメントホテル。2 ベッドルームの2LDKで1泊9千円)から徒歩1分の公園にある豊富な遊具と、同じく徒歩3分のビーチでの砂遊び(カナリア諸島の地元系スーパーマーケット「HiperDino」で衝動買いした9ユーロの砂遊びグッズが活躍した)にたちまち忘我となり、一日はあっという間に過ぎていった。
フエルテベントゥラ島を訪れた私の唯一の後悔、それは、「4日間では短すぎた」ということである。
白人の多さという意味では、アメリカの中西部も相当なものだ。でもフエルテベントゥラ島では、中産階級っぽい子連れ家族や老夫婦がマジョリティを占める。そこがアメリカ中西部とは違っている。極端に貧しそうな人がいないかわりに、極端に金持ちそうな人も見かけない。たぶんスーパーリッチはこんなところには来ないで、地中海の小島を貸し切って遊んだりするのだろう。
「白人の中産階級」とカテゴライズしてしまうと、なんだか退屈で多様性に乏しいイメージを抱かれるかもしれない。でもそこはさすがにヨーロッパで、人々の顔つきも飛び交う言語もバラエティに富んでいるからおもしろい。レストランのメニューも10ヵ国語くらいある(中国語がないのにスウェーデン語があったりする)。ビーチで遊んでいると小さな女の子がやってきて、「Guten Tag」と話しかけられる。デュッセルドルフからやってきた4歳児だという。
アジア人は皆無とまではいかないが、ほとんど見かけなかった。私が4日間の滞在中に遭遇したアジア人は、①空港の手荷物受取所で見かけた家族旅行の韓国人、②公園で見かけた現地の人っぽいお母さん、③スポーツバッグを抱えた部活帰り風の女の子、④ビーチを徘徊していた「マッチ売りの少女」ならぬ「マッサージ売りのおばさん」の中国人だけであった。1日あたり1アジア人、というレア度である。
「マッサージ売りのおばさん」は、15分20ユーロ。結構高い。でも(広い意味での)同胞意識もあって、つい按摩をお願いしてしまった。「你家在哪儿?」と訊くので「我是日本人」と答えたのに、ひたすら中国語でまくしたてられた。もちろん何を言っているのか全然わからない。でもいまになって思えば、あのおばさんもアジア人に久しぶりに会って嬉しかったのかもしれない。中国人って世界中のどこにでも住んでいるイメージがあるけれど、フエルテベントゥラ島は稀有な例外であるようだ。
ちなみに、おばさんのマッサージは全然うまくなかった。
これは一体なぜだろうか。
アフリカ北部の砂漠化がはじまった古代の時期に大陸から逃げてきた人たちが、島の最初期の住民であるという説がある。この人たちは、現在のヨーロッパに住む人たちと一部ルーツを同じくするし、また大陸との距離もわりに近いので(註:フエルテベントゥラ島は西サハラとモロッコの国境に近い場所にある)、島の原住民としてのアイデンティティがあまり明確化されなかった(明確化させる必要性があまりなかった)、というのが私の「仮説1」。
「仮説2」は、ホノルルや那覇に比べて自給自足に適さない痩せた土地なので、原住民たちは本土の征服(フランスやスペインに度々やられている)にカウンターするだけの力をついに得られなかった、というもの。こちらはちょっと悲しい仮説だが、「島に屈託なき歴史なし」という個人的見解には沿うている。
このあたりは、次回のカナリア諸島訪問(もう行く気になっている)のときにも、もう少し考察を深めることとしたい。
この原稿を書いているのは、2月下旬のウィーン。地下鉄の電光掲示板が示す天気予報によれば、明日の最低気温はマイナス12℃で、最高気温はマイナス4℃という。
最高気温がマイナス4℃?
我々は、カナリア諸島に戻らなければならない。いま自然に「戻る」という言葉が出てきてびっくりしたが、しかし納得もしている。あの砂漠を、あの溶岩を、あのビーチを、私はいま切実に欲している。
フエルテベントゥラ島は、地獄のような天国であった。
調べた結果は、「日照時間の少ない国は、自殺率が高い。これは統計的に有意である」というものだ(⇒ バークレーと私「天気と自殺の関係について考えたこと」)。記事を書いたのはもう5年前のことだが、いまウィーンに滞在する身となって、ひさしぶりにそのことを思い出している。
そう、冬のウィーンは、ほとんどいつも曇天なのだ。今年はどうやら暖冬らしいが(去年はドナウ川が凍結したらしいが)、それでも氷点下の日々は続く。雨も多いし、雪も多い。夕方の4時~5時台には、もう外は真っ暗である。
このような環境で暮らすのは、考えてみれば、私の人生で前例のないことだ。自殺願望、とまではいかないが(WHOによれば、2015年時点でオーストリアの自殺率は183ヵ国中27位との由)、ハッピーな気持ちを維持するために、いままでよりも主体的な努力が求められる実感はたしかにある。
そこで私が到達した考えは、「ここから逃げよう」ということだ。ウィーンは美しく住みよい街である。でもそれはそれとして、暖かく、陽光に恵まれた場所へ、ここではないどこかへ(一時的に)逃げよう、と。そして私は妻の説得に成功した。日光への渇望を感じていたのは私だけではなかったのだ。
旅行とはしばしば逃避行動のパラフレーズである。つまり我々は、ここに正しく旅行の本質を見出したのである。
フエルテベントゥラ島(Fuerteventura) |
ウィーンからフエルテベントゥラ島へ
最初の候補は、ギリシャやマルタといった地中海の島々だった。でも調べてみると、どうも期待したほど暖かくないらしい。そういえば、私が人生で10回くらい読み返した村上春樹の「遠い太鼓」にも、冬のギリシャの気候的悲惨さが切々と書かれていた。そういうわけで、地中海から一旦離れて、針路を南にとって(より正確には南西にとって)目に留まったのが、スペイン領カナリア諸島であった。
カナリア諸島は大きく7つの島から成っている。そのひとつ、フエルテベントゥラ島を選んだ理由は特にない。強いて言えば、出発の予定日(2月初旬)にたまたまウィーンから直行便が出ていたというだけだ。
正直なところ、私はいままでフエルテベントゥラ島という名前すら聞いたことがなかった。ところが、職場の同僚――ソ連生まれのおっさんと、チェコスロバキア生まれのおっさん――と喫茶店でだべっていた際に、なんとなしに話をしてみると、彼らはフエルテベントゥラ島について実によく知悉しているのであった。
彼らの指摘は、主に以下のようなものであった。
・1年を通して、気温の変化があまりない。冬でも15℃~20℃。
・風が強く、にわか雨も時々あるが、ほとんどいつも晴天である。
・でも海は冷たい。遊泳は難しい。泳ぐにはダイビングスーツが必要だ。
・スペイン語圏だが、英語もよく通じる。治安もよい。夜の街歩きも問題ない。
・子連れの旅には最適。島内無数のビーチで、砂遊びや凧揚げがたのしめる。
・火山島なので、溶岩がごろごろしている。中心部には砂漠が広がる。
・風が強く、にわか雨も時々あるが、ほとんどいつも晴天である。
・でも海は冷たい。遊泳は難しい。泳ぐにはダイビングスーツが必要だ。
・スペイン語圏だが、英語もよく通じる。治安もよい。夜の街歩きも問題ない。
・子連れの旅には最適。島内無数のビーチで、砂遊びや凧揚げがたのしめる。
・火山島なので、溶岩がごろごろしている。中心部には砂漠が広がる。
そして実際に訪れてみると、本当にそのとおりの場所だったのである。
LCC(格安航空会社)のユーロウイングスで、ウィーンから約5時間の直行便が出ている |
空港からコラレホへ
フエルテベントゥラ空港でレンタカーを調達して(シトロエン・C4カクタス)、予約したホテルのあるコラレホ(Corralejo)という小さな町に向かう。空港を出ると、道路はすぐに広大な砂漠に呑み込まれる。
私はこれまで、米国コロラド州、サウジアラビア、クウェートの砂漠地帯に行ったことがある。つまり今回は人生で4度目の砂漠なのだが、その世紀末感(マッドマックス感、あるいは北斗の拳感と言い換えてもよい)において、フエルテベントゥラ島の砂漠は飛び抜けていた。
砂漠というより「土漠」に近い、ところどころ黒茶けた不毛な荒野。いまにも死につつあるように見える灰褐色の灌木。強風に巻き上がる砂煙。遠くに聳える裸の山々。
観光地に来たつもりが、いつのまにか地獄でドライブしていた。そう錯覚したほどである(少し誇張あり)。
そのような砂漠の中を1時間ほど運転して(そういえば信号がほとんど無かった)、島の北端にあるコラレホの町に入る。すると風景は一転して、リゾートの賑わいに包まれる。
道幅も急に狭くなって、一方通行が複雑に絡まりあう路上で駐車スペースを見つけるのは至難の業である。こんなに土地が広いんだから、もうちょっと道路を拡げてくれたっていいじゃないか・・・などと愚痴をこぼしながら、運よく無料駐車場に空きを見つける。
車を停めて町を歩けば、あとはもう愉快なことばかりだ。ウィーンであれほど切望した太陽の光は、ここでは無限に気前よく降り注ぐ。海が近いのに、湿度が低くて過ごしやすい。ご機嫌な人々が、ご機嫌なスペイン語で、ご機嫌に挨拶を交わす(¡Hola!)。海老と蛸のパエリアも、カナリア産ポテトの焼き物も、ソードフィッシュのソテーも、どれも無上のおいしさだ。
気候が快適で、人々がご機嫌で、食べ物がおいしい場所のことを、何と呼ぶのだったか。
そう、天国である。我々は地獄をドライブして、いま天国に到着したのである。
快適な町・コラレホ
フエルテベントゥラ島には、合計で4日間滞在した。ここはわりに広い島なので(沖縄本島の1.3倍くらい)、最初は車であちこち移動しようと思っていた。でも結局は、コラレホ(Corralejo)の周辺と、エル・コティージョ(El Cotillo)という静かな町と、コラレホの港からフェリーで行けるロボス島(Isla de Lobos)という無人島の3箇所にしか足を運ばなかった。
というのは、コラレホの居心地があまりに良すぎたからだ。島の南部にはオアシス・パークという巨大な動物園があって、子連れ旅行にお薦めという前評判は聞いていた。でも息子たちは、ホテル(「Corralejo Center, La Oliva」というアパートメントホテル。2 ベッドルームの2LDKで1泊9千円)から徒歩1分の公園にある豊富な遊具と、同じく徒歩3分のビーチでの砂遊び(カナリア諸島の地元系スーパーマーケット「HiperDino」で衝動買いした9ユーロの砂遊びグッズが活躍した)にたちまち忘我となり、一日はあっという間に過ぎていった。
フエルテベントゥラ島を訪れた私の唯一の後悔、それは、「4日間では短すぎた」ということである。
砂漠で凧揚げをしたが、風が強すぎて子どもが怯えた |
ここも洗濯物を外に干す文化だった。すぐに乾きそうで羨ましい |
コラレホの公園。太陽光発電でスマホ等を充電できる設備もあった(無料) |
さすがに豊富な海産物。一盛100円弱のあさりを買って、ホテルでボンゴレのパスタを作った |
白人比率の高さ
島を散策して気づいたのは、圧倒的な白人比率の高さである。厳密に人数を数えたわけではないけれど、印象として98%くらいが白人だ。空港のフライト発着案内を見ていても、出発地(目的地)はほとんどヨーロッパ、それも日照時間の乏しそうな地域がやたら多い。やはりそういうことなのだろう。白人の多さという意味では、アメリカの中西部も相当なものだ。でもフエルテベントゥラ島では、中産階級っぽい子連れ家族や老夫婦がマジョリティを占める。そこがアメリカ中西部とは違っている。極端に貧しそうな人がいないかわりに、極端に金持ちそうな人も見かけない。たぶんスーパーリッチはこんなところには来ないで、地中海の小島を貸し切って遊んだりするのだろう。
「白人の中産階級」とカテゴライズしてしまうと、なんだか退屈で多様性に乏しいイメージを抱かれるかもしれない。でもそこはさすがにヨーロッパで、人々の顔つきも飛び交う言語もバラエティに富んでいるからおもしろい。レストランのメニューも10ヵ国語くらいある(中国語がないのにスウェーデン語があったりする)。ビーチで遊んでいると小さな女の子がやってきて、「Guten Tag」と話しかけられる。デュッセルドルフからやってきた4歳児だという。
アジア人は皆無とまではいかないが、ほとんど見かけなかった。私が4日間の滞在中に遭遇したアジア人は、①空港の手荷物受取所で見かけた家族旅行の韓国人、②公園で見かけた現地の人っぽいお母さん、③スポーツバッグを抱えた部活帰り風の女の子、④ビーチを徘徊していた「マッチ売りの少女」ならぬ「マッサージ売りのおばさん」の中国人だけであった。1日あたり1アジア人、というレア度である。
「マッサージ売りのおばさん」は、15分20ユーロ。結構高い。でも(広い意味での)同胞意識もあって、つい按摩をお願いしてしまった。「你家在哪儿?」と訊くので「我是日本人」と答えたのに、ひたすら中国語でまくしたてられた。もちろん何を言っているのか全然わからない。でもいまになって思えば、あのおばさんもアジア人に久しぶりに会って嬉しかったのかもしれない。中国人って世界中のどこにでも住んでいるイメージがあるけれど、フエルテベントゥラ島は稀有な例外であるようだ。
ちなみに、おばさんのマッサージは全然うまくなかった。
コラレホの港からロボス島への定期フェリーが出ている。往復15ユーロ |
ロボス島の風景。フエルテベントゥラ島よりもさらに濃密な地獄感 |
息子を撮影。賽の河原をさまよっているみたいな雰囲気が出てしまった |
地学が好きな人ならたのしめると思う。私も仕事で勉強したことがあり、面白かった |
島で唯一のレストラン。予約が必要だった |
対岸に見えるのはフエルテベントゥラ島 |
カナリア諸島の原住民に関する仮説
もうひとつ気づいたのは、島の原住民らしき人を見かけないな、ということだ。もちろん、わずか4日の観光地の滞在では、私は何事を断ずることもできない。しかし、これ以上ないほどの観光地とも言うべきホノルルでも那覇でも、本土と異なるルーツの人々は然るべき割合を占めている(沖縄の人とディープに酒を酌み交わしていると、「我らが琉球王朝は・・・」といった発言がしばしば出てくる)。翻って、今回のフエルテベントゥラ島ではそうした気配をまるで感じなかった。島好きの私には、これは少なからず引っかかる点であった。これは一体なぜだろうか。
アフリカ北部の砂漠化がはじまった古代の時期に大陸から逃げてきた人たちが、島の最初期の住民であるという説がある。この人たちは、現在のヨーロッパに住む人たちと一部ルーツを同じくするし、また大陸との距離もわりに近いので(註:フエルテベントゥラ島は西サハラとモロッコの国境に近い場所にある)、島の原住民としてのアイデンティティがあまり明確化されなかった(明確化させる必要性があまりなかった)、というのが私の「仮説1」。
「仮説2」は、ホノルルや那覇に比べて自給自足に適さない痩せた土地なので、原住民たちは本土の征服(フランスやスペインに度々やられている)にカウンターするだけの力をついに得られなかった、というもの。こちらはちょっと悲しい仮説だが、「島に屈託なき歴史なし」という個人的見解には沿うている。
このあたりは、次回のカナリア諸島訪問(もう行く気になっている)のときにも、もう少し考察を深めることとしたい。
この原稿を書いているのは、2月下旬のウィーン。地下鉄の電光掲示板が示す天気予報によれば、明日の最低気温はマイナス12℃で、最高気温はマイナス4℃という。
最高気温がマイナス4℃?
我々は、カナリア諸島に戻らなければならない。いま自然に「戻る」という言葉が出てきてびっくりしたが、しかし納得もしている。あの砂漠を、あの溶岩を、あのビーチを、私はいま切実に欲している。
フエルテベントゥラ島は、地獄のような天国であった。
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