世界のどこにも似ていない街(ヴェネツィア)

 私がはじめてヴェネツィアを知ったのは、漫画「こち亀」で、主人公の両さんが部長とイタリア旅行をする回であった。

 たしかそこには、「ヴェネツィア、ベニス、イタリア。3カ国に行くんですよね」「お前はアホか。それは全部同じ場所だ」とかいうギャグがあって、当時小学生の私には素直に勉強になった。そうか、ヴェネツィアとベニスって同じ場所なんだ、と。

 それから数年後、中学生となった私は、「こち亀」と同じ週刊少年ジャンプに連載されていた「ジョジョ」に心を奪われた。ご存知の方もいらっしゃると思うが、この漫画では、ヴェネツィアが重要な舞台として幾度か登場する。ベニスではなくヴェネツィアと呼べ、と突然ブチ切れる印象的な敵キャラもいた。

 また、「ジョジョ」の作者の荒木飛呂彦先生は、「こち亀」の応援イラストとして、ヴェネツィアの地に立つ面妖な両さんを描いて(といっても荒木先生の描く人物はほとんどいつも面妖なのだが)、「ここに両さんが旅行したのだと思うと涙ぐんでしまう」といった趣旨のコメントを寄せたこともある。

 そんなわけで、ヴェネツィアは私にとって長らく特別な場所であった。


ヴェネツィアのゴンドラ


 「ジョジョ」の次にヴェネツィアが私の心を捉えたのは、30代になって、塩野七生の「海の都の物語」を読んだときだ。精神年齢は概ね中学生のままだけど、知識は少しばかり増えた私にとって、ヴェネツィア共和国という国のあり方には、抜群に惹きつけられるものがあった。

 「海の都の物語」は、読者に多面的な読み方を許す懐の広さを持った本である。そして私が最も惹きつけられたのは、ひとつの国家が千年以上も続くという、歴史的にもレアな事例を(塩野七生の気宇壮大なパースペクティブを借りる形で)つぶさに眺めたとき、不思議に立ち現れてくる近現代日本との共通点だった。

 たとえば、資源に恵まれない島国であること。地政学的にも、近隣の強国に翻弄されがちな運命にあること。そうした中で、主に通商貿易を通じて経済成長を果たし、国としてのプレゼンスを高めてきたこと。その成功の背景には、製造業のクラスター形成や中小企業(商人)の保護など、行政指導的な産業政策が少なからずあったこと。

 そのような国家が、往時の輝きを失い、政治力・経済力を弱め、やがて滅亡に向かってゆくプロセス。あるいは滅亡を避けようとして避けられないプロセス。そこから得られる教訓が、もしあるとするならば、きっとそれは日本の将来を考えるときにも役に立つのではないかと思ったのである。精神年齢は概ね中学生のままだけど。


(2019年2月17日追記)
 最近読んだ高坂正堯の「文明が衰亡するとき」にも、通商国家としてのヴェネツィアと日本の共通項が論じられていて、すごくエキサイティングでおもしろかったです。


ヴェネツィアの水路を渡るゴンドラ


ウィーン~ヴェネツィアの移動

 ウィーンからヴェネツィアへは、オーストリア航空でわずか1時間のフライトだ。このくらいであれば、子どもたちの忍耐力も持続する。行きはボンバルディアのDHC8-Q400で(プロペラ機はやはりテンションが上がりますね)、帰りはエンブラエルのE195。機内はすこぶる快適だった。

 マルコ・ポーロ空港とヴェネツィア本島の間には、水上バスも陸上バス(というか普通のバス)も走っている。私はどちらも利用したが、個人的には、廉価かつ快適な陸上バスに軍配をあげたい。水上バスも旅情があって悪くはないが、空港~本島と島内区間とで運営会社が違ったりして、チケット購入時に少なからぬ混乱があった(まあこれは下調べが足りなかった私の責任だが)。それに旅情という意味では、どうせ島内をめぐるときに思いきり味わえるのだ。


オーストリア航空(Austrian Air)で配布された幼児向けおもちゃ
機内でおもちゃをもらった。飛行機を模した小さなスプーン。オーストリア航空に感謝

第一印象

 ヴェネツィアに到着してすぐに気づいたのは、「この街は、私がいままで訪れたどの街にも似ていない」ということだ。私はこれまで、仕事での出張も含めて結構いろいろな土地に足を運んできたが、こんな印象を受ける街はめったにない。

 このオリジナリティ(=他との類似性の希薄さ)は、一体どこにあるのか。ちょっと考えてみると、それは、

(1) 道路や建物がほとんど中世のまま残されていること
(2) 海の水位ぎりぎりのところで街が成立していること
(3) 自動車はおろか自転車すら一台も走っていないこと

という点にあると思った。

 上記のうち、1項目くらいを満たす街なら、まあ探せばあるかもしれない。でも、3つの条件すべてにあてはまる場所となると、これは世界中でヴェネツィアしかないだろう(そんなことないぞ、と思われた方は教えてください。純粋な好奇心として私はそこに行ってみたい)。

 私はそのことにラディカルに心を動かされたし、また「所詮はポピュラーな観光地のひとつだろう」と正直なめていた部分があったことを強く反省した。実地に来てみないとわからない物事というのは、たしかにあるのだ。

(実地を訪れて気づいたことのもうひとつは、「ヴェネツィア共和国は都市国家だった」という基本的事実だ。日本との共通点を云々する前に、広く陸続きの領土を持つ日本とは前提条件が異なる点をまず認識すべきと、愚かな私はここでようやく理解したのであった)


ヴェネツィアの川辺

ヴェネツィアの洗濯物
街中ではよく洗濯物が干してあった。こういうのを見ると南欧に来たのだなと実感する

ヴェネツィア・ブラーノ島で見かけた洗濯物


1,2日目

 ヴェネツィアには全部で4泊した。夜も更けてからホテルに着いた最初の日は、特に何もせずに終わった。

 今回我々が泊まったのは、本島北部の閑静な住宅地にある「Residence Ca' degli Antichi Giardini」というアパートメントホテルだ。ここは2ベッドルームの2LDKで1泊130ユーロという安さで、我ながら優れたチョイスであった。

 ホテルのすぐ近くには地元系スーパーマーケット「Conad City」があって、ここで男性用下着を買ったり、夕食の材料を買ったりした。同好の士も多いと思うが、異国の地でスーパーマーケットを覗くのは、私の大いなるたのしみのひとつである。それにつけても、パスタの安さと種類の多さよ!

 2日目は、有名なサン・マルコ広場の鐘楼(Campanile di San Marco)に登った。でも嵐に近い大雨で、子どもたちの士気は下がりっぱなし。この日、上の息子がいちばん興奮したのは、強風で傘がひっくり返ったときだった。なんだ、そりゃ。


ヴェネツィアのケーキ屋さん 兼 喫茶店
立ち食いケーキ屋さん。スイーツ片手にエスプレッソをぐい飲みし、さっと店を出る感じだ

3,4日目

 3日目は、(この日も雨だったので)前日の反省を活かし、インドア路線に変更。スクオーラ・グランデ・ディ・サン・ロッコ(Scuola Grande di San Rocco)市立自然史博物館(Museo del Vetroへ出かけた。結果的に、これはどちらも功を奏した。

 ティントレットの作品群で知られるスクオーラ・グランデ・ディ・サン・ロッコは、子連れにはやや厳しいかと思われたが、備え付けの鏡で天井画を映し見る行為を純粋におもしろがる息子をよそに、わりにゆっくりと鑑賞できた。

 ヴェネツィア共和国を征服したナポレオンは、さまざまな宗教施設の廃止を命じたけれど、この建物は例外であったとの由。たしかにこれだけ圧倒的に美しいと、宗教心を抜きにしても壊すのは相当に躊躇われるだろう。傑出した美しさは、それ自身が強固な防衛力となる・・・というのが、ここで私が得た教訓である。

 ヴェネツィアの観光地としてはややマイナー嗜好かもしれない市立自然史博物館は、しかし見応えのある展示物が揃っていて、実際に子連れの訪問客で賑わっていた。

 13世紀に建てられた商館を改修した建屋内には、恐竜の化石、クジラの骨、鳥獣虫魚の剥製・標本などが、所狭しと並んでいる。そう、「所狭し」というのが私の捉えたこの博物館の特徴であって、日本の博物館と比べても、かなりの高密度で展示されているのである。

 その展示物群を眺めていても、学問的な系統性・整合性に比べて、造詣の珍しさ・奇妙さを愛しむ方向にずいぶん傾倒してしまっているような、どこか江戸川乱歩の世界にも通じるような背徳的な密室的な怪しさを、私は仄かに感じてしまう。博物館の内装がモダンに洗練されているだけに、収集家たち(その多くはヴェネツィア出身の探検家・金満家)の不治なる性癖がかえって前面に押し出されてしまったというか、そういう危うさがこの博物館にはある。

 ええと、こう書くと「変態御用達」みたいな間違った印象を与えてしまうかもしれませんが、でも子連れにお薦めの博物館であることは確かです。子どもを喜ばせる仕掛けも、随所にあります。ヴェネツィアで雨に降られて行き先に困った日などに、ぜひ。


ヴェネツィア・ムラーノ島の風景
ようやく晴れた4日目には、ムラーノ島(写真上)とブラーノ島にフェリーで出かけた

ヴェネツィア・ムラーノ島の公園
ムラーノ島の公園。観光地でも何でもないが、子どもたちの強い要望で1時間ほど過ごした

子どもたちの記憶

 そのようにして我々はヴェネツィアのあちこちを訪問した。しかし、いまになって最も味わい深く思い起こされるのは、やはり「どこにも似ていない」その街並みをのんびりと散歩したことだった。

 冬のヴェネツィアは、シーズンオフで観光客も少なく、のんびり散歩をするにはつくづく最高の環境だった。ベビーカーを持参すればよかったと後悔はしたけれど。そして冬の風物詩といわれるアックア・アルタ高潮で街の大部分が海に沈む現象)に遭わなかったのは、運が良かったのかそうでないのかよくわからないけれど。

 子どもたちにとっても、ヴェネツィアはよほど印象深かったようだ。旅行から約2ヶ月が経過したいまでも、彼らはヴェネツィアの思い出を(子どもに特有の唐突さで)よく口にする。

 4歳の息子は、「パパ、ヴェネツィアは海の上にあるんだよ」「パパ、ヴェネツィアでは船に乗るんだよ」「パパ、ヴェネツィアの空は夕焼けだよ」と、彼にとっては驚きに満ちたその発見の集積を、私に繰り返し繰り返し報告してくれる。もちろん私は、「そうなんだ」「すごいね」と、繰り返し繰り返し答えることになる。

 そして1歳の息子は、宿泊したホテルの最寄駅だったアルビゼ(S. Alvise)が、どういうわけか水上の乗り物全般を指す一般名詞に転化されたようで、お風呂でプラスチック容器を「アルビゼ! アルビゼ!」と引っ掻き回して自足している。アルビゼ駅としても、まさかここまで熱烈なファンを獲得するとは思わなかっただろう。


ヴェネツィアの売店


 彼らが大人になったとき、ヴェネツィアのことをどこまで憶えているだろうか。たぶん大方は忘却の海に沈んでしまうのではないか。私自身、幼少期を過ごした小笠原の記憶がほとんど残っていないように。

 それでもなお、赤々しい夕焼けの残光とか、アルビゼという言葉の響きとか、そうした断片だけでも構わないから、ずっと後になって、彼らの心に留まるものが何かしらあればいいと、私は期待してしまうのだ。それを親心と呼ぶのか、エゴと呼ぶのか、それとも親心という名のエゴと呼ぶのかまではわからないけれど。

 
ヴェネツィアの夕焼けの風景



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