「ベナン旅行記」アウトテイクス
(これは、デイリーポータルZへの寄稿記事「ブードゥー教のシャーマン、エグングン祭りに集まる」で使われなかったエピソードをまとめたものです)
とある公的機関のベナン所長曰く、IMF(国際通貨基金)が提供するSDG関連のプログラムにおいて、ベナンとルワンダだけは無条件で措置を受けられるとの由。
隣国ナイジェリアに比べれば治安もよく、世界銀行の「Starting a Business」ランキングでは65位(日本は106位)。現政権は外資誘致にも積極的で、なるほど街を歩けば中国製の三角コーンが工事現場に並んでいる(私は三土たつおさんとの対談で三角コーンの見分け方を学んでいた)。さらに中国人はビザ不要で入国できるらしい。
「のどかな時間は流れつつも、ぐいぐいと成長している国」というのが、私の率直な印象であった。
子どもたちが「Bonsoir!」と笑顔であいさつしてくれるのも嬉しかった。素性のわからない異邦人に対しても声をかけるような、そういう教育が行き届いているのだと思った。
道に迷って案内をお願いしたときも、その期待に応えられる人ばかりであった。国によっては「知らないと言えない」文化だったりして、善意から(というのが厄介なのだが)でたらめな方向を告げる輩がいたりもするのだが、ベナンではそうしたことはなかった。あるいは私が幸運だったのかもしれないが。
とはいえ、もちろんベナンにも危険な場所はある。前述のベナン所長の方によれば(この人はアフリカ各国に4回も赴任している)、北部エリアでは内陸国から侵入してきた武装集団が跋扈しており、ほとんど無法地帯のような状況になっているそうだ。
また、湾岸都市コトヌーでも、NOVOTELのあるビーチ周辺は強盗団の巣窟となっていて、昼間でも事件が多発しているという。私はそのエリアにはたまたま足を運んでいなかったが、これから旅行をされる方は留意しておくとよいだろう。
ブードゥー教ではお酒を飲むのも許される。勃起不全に悩む男性は、スペシャルな木の棒をウォッカやウィスキーなどに浸して、そのアルコール飲料をぐっと呑むことで精力がつくという。これとはべつに夫婦和合のお守りもあって、がんばるお父さんへのサポート体制は万全なのであった。
ブードゥー教は、アフリカの土着信仰とキリスト教をミックスしたものとして知られているが、肝心のキリスト教徒にはあまり認められていないようだ。同行者Tさんは、出発前に同僚から「ブードゥー教なんてのは悪魔の宗教だ」「あんな野蛮なものに関わってはいけない」と忠告されたらしい。なかなかにひどい言われようである。
しかしながら、私の観察した限りでは、ブードゥー教は平和な民間信仰であった。記事で取り上げたエグングン祭りも、先祖の霊が一時的に帰ってくるという意味で、日本の「お盆」の行事に近しさを感じた。精霊をダンス(盆踊り)で迎えるところも似ているんじゃないか。
つまり日本の風習も、キリスト教圏からみれば西アフリカと同じくらい奇矯なものに映るのだろう。現地に足を運んだ私の、それが忌憚なき感想であった。そうしてブードゥー教が伝来されていったハイチへの旅行願望も、むくむくと湧いてくるのであった。
(いま私が日本に帰っていちばん読みたい本は「ヴードゥー大全―アフロ民俗の世界」だ)
ガンビエは、ダホメ王国の時代に奴隷狩りを逃れた人びとが隠れ住んだ水上の町。その末裔たちがいまも生活を営んでいて、民家も、商店も、学校も、飲食店も揃っている。
ガンビエに行くには、コトヌー市内から乗り合いタクシーをつかまえればよい。ボート乗り場に案内してくれるだろう。観光名所ゆえにボートの料金表もある(年を追うごとに値上がりしているらしい)。
頼んでいないガイドが勝手に乗り込んできたりするが、このあたりはご愛敬。ガイドが不要であれば初手からそのように宣言し、かたくなに支払いを拒めばよいのだ(もちろん我々はそうした)。
ダホメ王国は黒人国家でありながら奴隷貿易を推し進めたとして悪名高い。自国民を奴隷として引き渡すことで、白人商人から武器を購入していたのだ。
ウィダーの歴史博物館(ポルトガル城塞跡)には、「奴隷貿易を開始したのは我々(ダホメ王国)ではない。しかし、その利益を少なからず得たのは事実である」といった意味の文言が刻まれていた。資源や産業に乏しいダホメ王国は、好戦的な隣国オヨやアシャンティ王国などに対抗するために、奴隷貿易を選ばざるを得なかったのだ。
白人商人のなかには、人身売買をモラル的に忌避する者もあったらしい。けれども結局は、そうでない輩たちが奴隷貿易を推し進めた。悪貨は良貨を駆逐した。
そして私は想像するのだ。種子島銃を輸入した戦国時代、もし日本が国内資源(輸出価値を有する物品)を持たなかったら、あるいはここでも奴隷貿易の歴史が生まれていたのではないか、と。
陽気な音楽を奏でるボートが湖面に波をつくって、ゆっくりと我々から遠ざかっていく。
その光景はなんだか夢のなかの出来事みたいで、私は「アンダーグラウンド」という映画のラストシーンを思い出していた。
成長するベナン
2020年現在、ベナンはアフリカで最も順調に経済成長をしている国のひとつであるそうだ。とある公的機関のベナン所長曰く、IMF(国際通貨基金)が提供するSDG関連のプログラムにおいて、ベナンとルワンダだけは無条件で措置を受けられるとの由。
隣国ナイジェリアに比べれば治安もよく、世界銀行の「Starting a Business」ランキングでは65位(日本は106位)。現政権は外資誘致にも積極的で、なるほど街を歩けば中国製の三角コーンが工事現場に並んでいる(私は三土たつおさんとの対談で三角コーンの見分け方を学んでいた)。さらに中国人はビザ不要で入国できるらしい。
「のどかな時間は流れつつも、ぐいぐいと成長している国」というのが、私の率直な印象であった。
港湾都市コトヌーのダントゥッパ市場(Marché Dantokpa) |
古都アボメーで伝統織物を営む人びと |
平和なベナン
住宅地の建物には、鉄格子も鉄条網も見られない。これだけでもう、治安のよさを感じさせるには(少なくとも私にとっては)充分である。子どもたちが「Bonsoir!」と笑顔であいさつしてくれるのも嬉しかった。素性のわからない異邦人に対しても声をかけるような、そういう教育が行き届いているのだと思った。
道に迷って案内をお願いしたときも、その期待に応えられる人ばかりであった。国によっては「知らないと言えない」文化だったりして、善意から(というのが厄介なのだが)でたらめな方向を告げる輩がいたりもするのだが、ベナンではそうしたことはなかった。あるいは私が幸運だったのかもしれないが。
手前の子どものリュックが全開だ |
ノート替わりの黒板を持っていた |
とはいえ、もちろんベナンにも危険な場所はある。前述のベナン所長の方によれば(この人はアフリカ各国に4回も赴任している)、北部エリアでは内陸国から侵入してきた武装集団が跋扈しており、ほとんど無法地帯のような状況になっているそうだ。
また、湾岸都市コトヌーでも、NOVOTELのあるビーチ周辺は強盗団の巣窟となっていて、昼間でも事件が多発しているという。私はそのエリアにはたまたま足を運んでいなかったが、これから旅行をされる方は留意しておくとよいだろう。
エグングン祭りの開催地ウィダーの住宅街 |
ベナンの人たちはこまめに掃除をする習慣があった |
日本のアニメもしばしば見かけた。フランス経由で伝わったのだろうか |
ブードゥー教に親しむ
ベナンはブードゥー教を国教を定めている。地方都市の中心部には、たいてい生々しい呪物市場がある。ほとんどは撮影禁止なので写真は紹介できないが、道端でいきなり猫の生首が陳列されてあるのはインパクトがあった。「これは違う世界に来たな」という実感があった。
デイリーポータルZの記事で紹介したのは、トーゴのロメ郊外にあるアコデサワ・フェティッシュマーケット(Akodessewa Fetish Market)。「フェティッシュ」というと下着愛好家などの変態性欲を連想するけれど、より根源的には「呪物(Fetish)を崇拝すること」を指す言葉である。
新聞の古紙かと思ったらそうじゃなかった |
ブードゥー教ではお酒を飲むのも許される。勃起不全に悩む男性は、スペシャルな木の棒をウォッカやウィスキーなどに浸して、そのアルコール飲料をぐっと呑むことで精力がつくという。これとはべつに夫婦和合のお守りもあって、がんばるお父さんへのサポート体制は万全なのであった。
折り畳みテーブルをお土産に買った(これは呪物ではないのでオーケー) |
ブードゥー教は、アフリカの土着信仰とキリスト教をミックスしたものとして知られているが、肝心のキリスト教徒にはあまり認められていないようだ。同行者Tさんは、出発前に同僚から「ブードゥー教なんてのは悪魔の宗教だ」「あんな野蛮なものに関わってはいけない」と忠告されたらしい。なかなかにひどい言われようである。
しかしながら、私の観察した限りでは、ブードゥー教は平和な民間信仰であった。記事で取り上げたエグングン祭りも、先祖の霊が一時的に帰ってくるという意味で、日本の「お盆」の行事に近しさを感じた。精霊をダンス(盆踊り)で迎えるところも似ているんじゃないか。
つまり日本の風習も、キリスト教圏からみれば西アフリカと同じくらい奇矯なものに映るのだろう。現地に足を運んだ私の、それが忌憚なき感想であった。そうしてブードゥー教が伝来されていったハイチへの旅行願望も、むくむくと湧いてくるのであった。
(いま私が日本に帰っていちばん読みたい本は「ヴードゥー大全―アフロ民俗の世界」だ)
写真を子どもに見せたら「オバケだ!」と反応。物事を正しく理解していた |
水上集落ガンビエと奴隷貿易の哀しみ
ベナンで定番の観光スポットといえば、ノコウエ湖の上に広がる水上集落ガンビエ(Ganvie)である。ガンビエは、ダホメ王国の時代に奴隷狩りを逃れた人びとが隠れ住んだ水上の町。その末裔たちがいまも生活を営んでいて、民家も、商店も、学校も、飲食店も揃っている。
ガンビエに行くには、コトヌー市内から乗り合いタクシーをつかまえればよい。ボート乗り場に案内してくれるだろう。観光名所ゆえにボートの料金表もある(年を追うごとに値上がりしているらしい)。
頼んでいないガイドが勝手に乗り込んできたりするが、このあたりはご愛敬。ガイドが不要であれば初手からそのように宣言し、かたくなに支払いを拒めばよいのだ(もちろん我々はそうした)。
ダホメ王国は黒人国家でありながら奴隷貿易を推し進めたとして悪名高い。自国民を奴隷として引き渡すことで、白人商人から武器を購入していたのだ。
ウィダーの歴史博物館(ポルトガル城塞跡)には、「奴隷貿易を開始したのは我々(ダホメ王国)ではない。しかし、その利益を少なからず得たのは事実である」といった意味の文言が刻まれていた。資源や産業に乏しいダホメ王国は、好戦的な隣国オヨやアシャンティ王国などに対抗するために、奴隷貿易を選ばざるを得なかったのだ。
毎年の奴隷戦争は、どの王も無視しえない国家的制度であった。実際、なんら生産的な交易がないので、奴隷戦争をもしもやめたら、国家を武器を購入するための輸出商品のない状態にし、そのため、海外への奴隷としてダホメ人を売り飛ばすことをやめないであろう、憎しみをもやしている敵の前に丸腰で対することになっただけだろう。
引用:カール・ポランニー「経済と文明 ダホメの経済人類学的分析」
(ちくま学芸文庫)p.240
(ちくま学芸文庫)p.240
白人商人のなかには、人身売買をモラル的に忌避する者もあったらしい。けれども結局は、そうでない輩たちが奴隷貿易を推し進めた。悪貨は良貨を駆逐した。
そして私は想像するのだ。種子島銃を輸入した戦国時代、もし日本が国内資源(輸出価値を有する物品)を持たなかったら、あるいはここでも奴隷貿易の歴史が生まれていたのではないか、と。
ガンビエを訪れたのはエグングン祭りの前日で、水上には祝祭の予感らしきものが立ち込めている。我々はそこでボートに乗り込んだ楽団とすれ違った。
陽気な音楽を奏でるボートが湖面に波をつくって、ゆっくりと我々から遠ざかっていく。
その光景はなんだか夢のなかの出来事みたいで、私は「アンダーグラウンド」という映画のラストシーンを思い出していた。
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