うんこと私のデッド・ヒート
ウィーンで過ごす休みのとき、晴れた日には公園に行き、雨の日には家で過ごすことが多い。そこでは「お金がかからない」という判断基準が重視される。
家のなかでは、他愛のない遊びをよくしている。
具体的には、かくれんぼをしたり(3歳の息子は「頭を隠して尻を隠さず」スタイルだ)、トランプでババ抜きをしたり(3歳の息子はジョーカーを引くと返品してくるスタイルだ)、ボコノン教の挨拶ごっこ(ふたりで向かい合ってお互いの足の裏をくっつける遊び。元ネタはカート・ヴォネガットの「猫のゆりかご」)をしたり、どうぶつしょうぎをしたりする。
愛の確認ごっこをすることもある。
これは、3歳の息子に、いくつかの質問をする遊びだ。
「ママのこと、好き?」と、私が訊く。
「だいすき」と、子どもが笑う。
「お兄ちゃんは、好き?」
「すき」と言う。よくいじめられるけど、それでも好きらしい。
「キッチンペーパーは、好き?」
「すき」
彼の世界は、好きなもので溢れているのだ。
そこで私は質問をする。「パパのこと・・・好き?」
すると、「すきじゃない」という答えが返ってくる。
息子にとっての愛の序列は、
なのであった。
「そんなことばっかり訊いてるから嫌われちゃうのよ」と奥さんが言う。「まずは自分から『好きだよ』って伝えるべきでしょう」
けだし正論である。
たしかに私は、愛を確認する行為にいそしんでいる。ほとんど毎日といってもいいほどだ。モテない奴ほど「自分を好きか」としつこく詰める。そうすればするほど、可能性のつぼみが閉ざされてゆく。その法則なら私も知っている。
けれども、「わかっちゃいるけどやめられない」のが人間というものである。そしてまた、10回に2回くらいの確率で「パパ、すき」と言ってくれるのだ。私の観察によれば、どうやら寝起きのタイミングにパパの好感度は最低となり、おやつを買ったり公園で遊んだりしたときに「すき」が得られやすくなるようだ。幼児とは即物的な生き物なのである。
息子はパパ以外のものをすべて「すき」と答えるが(金融緩和も緊縮財政も「すき」と言うのだが)、パパにだけは「すきじゃない」が出る。つまりそれは、逆説的な表現として、私のことがいちばん好きということではないか。そういうことで間違いないのではあるまいか。
「それってストーカーの発想よ」と奥さんが言った。「『本物』の考え」
そうしたところへ、私のポジションをゆるがす好敵手があらわれた。
うんこである。
「うんこは、好き?」
「すきじゃない」
「パパは、好き?」
「すきじゃない」
うんこと私が、まさかの同点となってしまった。
これは屈辱というほかない。私はこんなにも息子を想っているのに、彼の主観からすると、うんこと私は近しいポジショニングにあるというのだ。
さすがにこれは、寛容できない。
うんこに負けるわけにはいかない。うんこを叩き潰す――とまでは言わずとも――うんこに対峙し、うんこと四つに組み合い、うんこをリードし、これを踏み越えていく必要がある。
なにしろこちらは、10回のうち2回は「すき」と言ってくれるのだ。私の優位性は、端的に言って揺るぎないものがあるだろう。
そう思っていたら、3歳の息子に、うんこへの好意がわずかに高まった気配があった。私はうっかり失念していたのだが、小さな男の子というのは、概してうんこが好きなのだ。
これはまずい。
そこで私は、日々の確認行為を通じて、「うんこ」と「私」のどちらにより3歳児の好意が寄せられたかをテイクノートすることにした。「パパ、好き?」と「うんこ、好き?」の二問を重ねて、パパが好きか、うんこが好きか、それともどちらも好きではないか(引き分け)、これをテイクノートすることにした。
するとどうなったか。ここまでの戦績を検めるために、ちょっと音読してみよう。
引き分け、引き分け、引き分け、うんこ、うんこ。引き分け、パパ、引き分け、パパ、うんこ、うんこ、引き分け、引き分け。うんこ、うんこ、引き分け、うんこ。引き分け、うんこ、引き分け、うんこ、引き分け、引き分け、うんこ、パパ。うんこ、パパ、うんこ、引き分け、パパ、うんこ、引き分け。引き分け、引き分けうんこ、うんこパパ引き分け引き分けうんこ、うんこパパうんこうんこパパうんこ引き分けうんこ。
私の奥さんが、狂人を見る目で私を見た。
「ゆめをみたよ」と、昼寝から起きた子どもが言った。
「どんな夢?」と私は尋ねた。3歳ともなると、脳の働きも発達してくるようだ。
「えーとね、ぱぱがね、うんこにおいかけられてた」
うんこと私のデッド・ヒートは、ついに3歳児の夢のなかで具現化するに至ったのである。
家のなかでは、他愛のない遊びをよくしている。
具体的には、かくれんぼをしたり(3歳の息子は「頭を隠して尻を隠さず」スタイルだ)、トランプでババ抜きをしたり(3歳の息子はジョーカーを引くと返品してくるスタイルだ)、ボコノン教の挨拶ごっこ(ふたりで向かい合ってお互いの足の裏をくっつける遊び。元ネタはカート・ヴォネガットの「猫のゆりかご」)をしたり、どうぶつしょうぎをしたりする。
6歳の息子はどうぶつしょうぎを自作した(素材:引っ越し用の段ボール) |
愛の確認ごっこをすることもある。
これは、3歳の息子に、いくつかの質問をする遊びだ。
「ママのこと、好き?」と、私が訊く。
「だいすき」と、子どもが笑う。
「お兄ちゃんは、好き?」
「すき」と言う。よくいじめられるけど、それでも好きらしい。
「キッチンペーパーは、好き?」
「すき」
彼の世界は、好きなもので溢れているのだ。
そこで私は質問をする。「パパのこと・・・好き?」
すると、「すきじゃない」という答えが返ってくる。
息子にとっての愛の序列は、
ママ >>> キッチンペーパー > パパ
なのであった。
「そんなことばっかり訊いてるから嫌われちゃうのよ」と奥さんが言う。「まずは自分から『好きだよ』って伝えるべきでしょう」
けだし正論である。
たしかに私は、愛を確認する行為にいそしんでいる。ほとんど毎日といってもいいほどだ。モテない奴ほど「自分を好きか」としつこく詰める。そうすればするほど、可能性のつぼみが閉ざされてゆく。その法則なら私も知っている。
けれども、「わかっちゃいるけどやめられない」のが人間というものである。そしてまた、10回に2回くらいの確率で「パパ、すき」と言ってくれるのだ。私の観察によれば、どうやら寝起きのタイミングにパパの好感度は最低となり、おやつを買ったり公園で遊んだりしたときに「すき」が得られやすくなるようだ。幼児とは即物的な生き物なのである。
息子はパパ以外のものをすべて「すき」と答えるが(金融緩和も緊縮財政も「すき」と言うのだが)、パパにだけは「すきじゃない」が出る。つまりそれは、逆説的な表現として、私のことがいちばん好きということではないか。そういうことで間違いないのではあるまいか。
「それってストーカーの発想よ」と奥さんが言った。「『本物』の考え」
そうしたところへ、私のポジションをゆるがす好敵手があらわれた。
うんこである。
「うんこは、好き?」
「すきじゃない」
「パパは、好き?」
「すきじゃない」
ママ >>> キッチンペーパー > パパ = うんこ
うんこと私が、まさかの同点となってしまった。
これは屈辱というほかない。私はこんなにも息子を想っているのに、彼の主観からすると、うんこと私は近しいポジショニングにあるというのだ。
さすがにこれは、寛容できない。
うんこに負けるわけにはいかない。うんこを叩き潰す――とまでは言わずとも――うんこに対峙し、うんこと四つに組み合い、うんこをリードし、これを踏み越えていく必要がある。
なにしろこちらは、10回のうち2回は「すき」と言ってくれるのだ。私の優位性は、端的に言って揺るぎないものがあるだろう。
そう思っていたら、3歳の息子に、うんこへの好意がわずかに高まった気配があった。私はうっかり失念していたのだが、小さな男の子というのは、概してうんこが好きなのだ。
これはまずい。
そこで私は、日々の確認行為を通じて、「うんこ」と「私」のどちらにより3歳児の好意が寄せられたかをテイクノートすることにした。「パパ、好き?」と「うんこ、好き?」の二問を重ねて、パパが好きか、うんこが好きか、それともどちらも好きではないか(引き分け)、これをテイクノートすることにした。
するとどうなったか。ここまでの戦績を検めるために、ちょっと音読してみよう。
引き分け、引き分け、引き分け、うんこ、うんこ。引き分け、パパ、引き分け、パパ、うんこ、うんこ、引き分け、引き分け。うんこ、うんこ、引き分け、うんこ。引き分け、うんこ、引き分け、うんこ、引き分け、引き分け、うんこ、パパ。うんこ、パパ、うんこ、引き分け、パパ、うんこ、引き分け。引き分け、引き分けうんこ、うんこパパ引き分け引き分けうんこ、うんこパパうんこうんこパパうんこ引き分けうんこ。
私の奥さんが、狂人を見る目で私を見た。
「ゆめをみたよ」と、昼寝から起きた子どもが言った。
「どんな夢?」と私は尋ねた。3歳ともなると、脳の働きも発達してくるようだ。
「えーとね、ぱぱがね、うんこにおいかけられてた」
うんこと私のデッド・ヒートは、ついに3歳児の夢のなかで具現化するに至ったのである。
コメント
暑さがちょっと和らぎました。
完敗必至です。
うんこドリルはウィーンには売っていないので安心ですが、私自身が欲しくもあります。悩ましいところです。