子どもたちは笑顔で中指を突き立てた(パレスチナ)
装甲車の窓がゆっくりと開いて、軍用スコープの照準が私の姿を捉える。
そのとき私は、荒野にも似たパレスチナの農園を抜けて、イスラエルの高速道路に立ち入っていた。泥まみれの格好で、ぼろぼろの自転車を担いで歩いていた。
外形的には、私はテロリストと同じような行動を取っていたのである。
※ これは「理想の光、暴力の影(イスラエル)」の続篇ですが、この記事だけを読まれても特に支障はありません。
せめて国境線(という言葉も使い方が難しいのだけれど)の近くで、その空気に触れてみたかった。そして私には、そうした方面における個人的な「ツテ」がないわけではなかった。
しかし最終的には断念した。出発まぎわに、治安面でかなり緊張が高まっているとの一報があったからだ(その数日後、実際にパレスチナ人4名がイスラエル軍に殺害された)。
私がもしジャーナリストだったら、そうした現場にこそ肉薄すべきだと考えるだろう。でも私はジャーナリストではなかった。ごく平均的な、いや平均よりもいくぶん劣った、しがない2児の父親であった。
そしてまた、私が行き先で肉薄したいのは、事件ではなく「日常」であった。パレスチナのごく普通の人びとたちが、どんな風に暮らしているのか。どんな顔つきをして、どんな歩き方をしているのか。それをこの目で見たかった。そのように思いを巡らせたとき、ガザへの訪問は今回は見送るべきとわかった。
一説によれば、ジェリコは世界でいちばん古い都市であるという。それから聖書に出てくるジェリコの壁(Walls of Jericho)の逸話が有名らしい。
私は聖書のことをよく知らない。でも映画への愛なら過剰に蓄えている。だから私にとってジェリコといえば、「或る夜の出来事」というコメディ映画である(主人公の男女が相部屋になって、間違いを起こさないために毛布で敷居をつくってジェリコの壁と呼ぶ場面がある)。そういえば「新世紀エヴァンゲリオン」にもこの場面へのオマージュがありましたね。
その数は少ないけれど、イスラエル発ジェリコ行きの現地ツアーも存在する。なんと日本語のツアーまである。でも私はいろいろ考えて、自力で行くことにした。やはりパレスチナ人の日常を見たかったからだ。できれば観光バスではなくて、自分の足で歩きたかった。
いまにして思えば、それが失敗のはじまりだったのだけれど。
Google Mapでも、Rome2rioでも、ある一定のポイントから先の情報が出てこない。30kmくらいの距離を自分の車で行け、あるいは徒歩で行け、というソリッドな結果が示される。
いろいろと考えた結果、エルサレムから263番のバスに乗ってエイザリーヤ(Eizariya)で下車して、そこから乗合タクシー(ユダヤ地区ではシェルート、アラブ地区ではセルヴィスと呼ばれる)でジェリコに向かうという計画を立てた。
私は、旅行中にWiFiを持参しない主義(というほどのものでもないけど)である。ホテルや電車などの無料WiFiを点々と借りながら、飛び石のようにしのいでいく主義である。
だから移動の際には、iPadに保存した各種スクリーンショット画像と、ネット接続なしでも使えるGoogle MapのGPSだけが頼りとなる。
しかし、このGPS機能はエルサレムの都市部から離れるとすぐに動かなくなり、「現在地を特定できません」のメッセージとともに穏やかな死をむかえた。
特定できない現在地から、263番のバスが発車した。
このバスには電光掲示板も車内アナウンスもない。乗客も全員アラブ系の人たちだ。隣の女の子に英語で話しかけても、力なく首を振られるばかりである。
通過するバス停にすばやく視線を投げかけてみても、その表記はアラビア語のみ。なかには何の文字も書かれていない「完全ノーヒント系」もある。
アラブの濃度が、にわかに高まりをみせてきた。
こうした状況にあって私は、バス停ごとに「エイザリーヤ? エイザリーヤ!」とばかみたいに連呼し、運転手さんに自分の存在をアピールすることで、なんとかその駅で降ろしてもらうことにした。
今回の旅では、「困ったらとにかく人に尋ねる」という方針が、いつも以上に求められるのであった。
15分ほど待って、乗客の頭数が揃う。私以外の全員が地元の人たちだ。出発する前に、念のためパレスチナ・ナンバーの車かどうかを運転手さんに確認したら(イスラエル・ナンバーの越境は法律で禁止されている)、そんなの当たり前だろという反応であった。
高速道路は町を脱して、砂漠をすっと切り裂くように伸びてゆく。道すがらヒッチハイクをしている白人男性がいて驚いたけど、運転手のおじさんは一瞥もくれず、すいすいとジェリコに向かうのであった。
運転手のおじさんは気さくな性格で、「どこから来たの? 日本人? そうかそうか、日本はだいすきだよ」などと距離を詰めてくる。
私としては、初対面の相手に国籍や人種を押し出すようなトークをするのは気が進まない(経験上、あまり愉快ではない展開になるケースがあるので)。でもおじさんはそんなことはお構いなしである。
「よし、それじゃあ今日は、きみのジェリコ観光をみっちりサポートしてあげよう」という話になった。これで20シェケル≒600円というから、まあ悪くない話である。
でもジェリコ中心部の雑踏を目にしたとき、私の気持ちは再び変わり、おじさんの申し出を辞退することにした。ここはやはり車に頼らない方がおもしろかろうと思ったのだ。
釣れる寸前の魚を逃したような格好となったおじさんは、そこからしつこく粘ってきたが、同乗客のおばさんが、「いいじゃない、もうこの日本人の言うとおりにさせてあげなさいよ」みたいな助け舟を出してくれて、私は無事に放流された。
おじさんにはちょっと悪いことをしたので、20シェケルをそのまま渡した。ジェリコまでの運賃、プラス、多少のチップという意味合いである。
そこにはいかにも善良そうなお爺さんがいて、私を日本人と知ると「この建物はJICA(国際協力機構)の支援事業でつくられたんだ。だからきみに御礼を言わせてくれ」と喜んだ。いやいや、私はJICAの職員ではありませんよ、と言っても関係なしである。
好意に便乗する形で、オフィス用のWiFiパスワードを教えてもらった。これで現在地が確認できる。ドラクエでいえば、ようやく教会でセーブできたような安心感だ。
「パレスチナに来てくれてありがとう」とお爺ちゃんは言った。「メッセージや寄付もありがたいけど、実際に来てもらうことが、我々にはいちばん嬉しいことなんだ」
案内所でもらった地図(これもJICAの資金協力でつくられた)を片手に歩いていると、10歳くらいの男の子が「Do you need help?」と話しかけてきた。
「旅先で向こうから話しかけてくる輩はたいてい悪人」という偏狭な世界観を有する私は、はじめ彼を無視していたが、その素朴な笑顔には悪意を感じさせる要素がまったくない。
だんだん申し訳ない気がしてきて、「自転車を借りたいんだよね」と言ってみた。
「ああ、それなら目の前にあるよ」と教えてくれたのが、
この自転車屋さんであった。なるほど、彼の言うとおり目の前にあった。
食事中のおじさんに声をかけて(勤労意欲という概念から完全に解放された風格がそこにはあった)、私はマウンテンバイクを借りることにした。
1日レンタルで、30シェケル≒900円。値段を尋ねてから返答があるまでに一瞬の間があったので「たぶんちょっとボラれてるな」と感じたが、あえてそのままボラれにいくことにした。
というのも、どうもパレスチナに来てから短時間で善意を受けすぎている気がしたからだ。それに所詮は900円である。このあたりでひとつボラれて、貸借対照表のバランスを取らなくてはいけない、と私は思った。
(後日、たぶん同じお店を使った人から、20シェケルだったと伺った。たしかに私はボラれていたのだ)
お金を渡して、自転車を借りる。身分証の提示も、連絡先の登録もなし。いつまでに返してくれとかいった指示もなし。どこまでもシンプルでラディカルな信用経済なのであった。
なぜなら私が自転車を漕いでいるだけで(タイヤの空気がすかすかでスピードが出ない)、道行く人からもれなく笑顔で話しかけられるからだ。
「どこに行くんだい?」
この道に沿って、とりあえず進むよ。
「ハロー!」
ハロー!
「ニーハオ!」
コンニチワ!(おれは日本人だぞ、というニュアンスを込めて)
「調子はどうだい?」
いい感じだよ。
「パレスチナは好きかい?」
いま好きになっているところだよ。
「マネーマネーマネー!」
(こらっ、とお母さんに小突かれる男の子)
なかには「アイラブユー」と言ってくる小さな男の子もいて、思わずにっこりしてしまう。出会いがしらに愛していると言われるなんて、なにしろ人生ではじめてのことである。
最初からここに行こうと決めたわけではない。観光マップを眺めていたら、近くに難民キャンプがあるとわかったので、純粋な好奇心で行ってみたのだ。
セキュリティ・ゲートの類はないので、するっと立ち入ることができる。でも区域内に入ると、住居の「ぼろぼろ度」の目盛りが2つくらい進んだような印象がある。
子どもたちの歓声があちこちで聞こえてくる。
パレスチナの子どもたちは、だいたい彼らだけで遊んでいる。監督するおとなの姿は見当たらない。余裕がないのか、のどかだからか、ヨーロッパではまず見かけない光景である。
でも昭和初期の日本の子どもたちって、こういう感じだったのかもしれない。そんなことを思いながら気ままに自転車を漕いでいると、
まさにそんな感じの集団がやってきて、
私に向かって、むちゃくちゃにイイ笑顔で中指を突き立ててきた。
中指を立てるというのは、「ファック・ユー」、つまり「ぶち殺すぞ」という意味を持つ。まあ普通に考えると、強烈な敵意が私に向けられていることになる。
とはいえ、このはじけるような笑顔は、どうしたって敵意とは結びつかない。
これは一体どういうことなのか。
混乱しているうちに、私は子どもたちに囲まれた。「どこから来たの?」とか「カッコいいだろ、この馬」みたいなことを言っている・・・たぶん。子どもたちはほんの少ししか英語を解さないので、どうしても「たぶん」交じりの、身ぶり手ぶりの対話になる。
「中指を立てるサインには、なにか宗教的な意味があるの?」と尋ねたら、どういうわけか爆笑された。よくわからないけど、とにかく皆がたのしそうなので、私も笑った。
ひとりだけスマホを持った子どもがいた。画面は馬に踏まれたんじゃないかってくらい割れまくっていたけど、でもスマホはスマホだ。
「一緒に写真を撮ろうよ」と誘われ、私は馬に乗った少年たちと一緒に中指を突き立てた。
むちゃくちゃにイイ笑顔で。
観光案内所で復活したGoogle MapのGPS機能がまだ生きていたので、そのルートに従って自転車で走った。
ところが、なんだか様子がおかしい。
道の舗装がなくなって、さらに泥道と荒野のけじめがつかなくなってきたのだ。
そこへ、なにかが動く気配があった。見ると、
犬であった。
舗装されていない道で、犬が出てくる。
経験からすると、これは明確によくない状況である。
私はこれまで、バークレーとウェストパームビーチの2カ所で、それぞれ野良犬(あるいはホームレスの飼い犬)に真剣に追い詰められたことがある。どちらも怪しげな区画に侵入した私の失策、というか自業自得なのだが、あれには本当に肝が縮んだ。
不吉な予感というのはなぜか的中するもので、犬の数はたちまち10匹ほどに増え、私は前後を塞がれた。
Google Mapの現在地を確認すると、私はまだ難民キャンプ前の大通りにいることになっている。私はやっと理解した。再びGPSの圏外に入ってしまったのだ。
そしてここはおそらく誰かの農園である。私は白昼堂々の侵入者であって、番犬たちはいま忠実にその職務を遂行しているというわけだ。
犬たちは猛烈な勢いで私に吠えたてる。
私は彼らの言語を解さないが、おそらく「ファック・ユー」、つまり「ぶち殺すぞ」という意味ではないかと推察された。
私を取り囲む犬たちの同心円が、徐々に小さくなってきた。
「あっ、これはちょっと死ぬかもしれないな」と唐突に思った。
この犬たちには、狂犬病らしき徴候はみられない。これは安心材料のひとつである。
そして犬というのは、自分より弱いものに襲いかかり、強いものに従う生き物だ。
なめられてはいけない。
そのとき私が瞬間的に思い出したのは、村上春樹の「遠い太鼓」で、村上さんがシチリア島のパレルモで犬を怒鳴りつけるシーンだった。
私は村上春樹の熱心な読者である。なかでも同氏が30~40代の頃に執筆した「滞在記もの」を愛する者である。瀬戸内海の無人島で虫をいじめたり、オーストリアの田舎で車がイカれて奥さんと喧嘩したり、なんというか作者の人間として未熟な部分が絶妙に醸し出されていて、読むたびに特別なシンパシーを感じるのだ。
そういうわけで、私は自転車を立ち漕ぎしつつ(身体を大きく見せて威嚇するという動物的行動)、若き日の荒ぶる村上さんに倣って、
おらあ、どけどけぃ、ぶっとばすぞこのやろおおおお!
と、犬たちに日本語で怒鳴りつけたのであった。
するとこれが効果てきめんで、犬たちは爆走する自転車からあわてて逃げ出した。犬たちとしても、まさかこの東アジア人がいきなり反撃に出るとは思わなかったのだろう。
村上春樹のおかげで、私は窮地を脱したのであった。
荒野(のような農園)の先には高速道路が走っていて、その手前には深さ2メートルの壕がある。「どうぞお通りください」という雰囲気は、ひとかけらも見当たらない環境だ。
後ろを振り向くと、さっきの犬たちがまだ私の様子を窺っている。こちらもウェルカムな気配は皆無である。
前門の高速道路、後門の犬たち。
私は前進することにした。やがて地面がぐじゃぐじゃになって、ついには自転車が漕げなくなったので、肩に担いで歩いていった。だんだん映画「大脱走」みたいな状況になってきた。
なんとか道路に立ち入って、農園を大きく迂回する形でジェリコの町へと戻ることにした。砂漠のなかでひとつだけ建物が密集しているエリアがあるので、そちらに向かえば間違いないと思われた。
自転車を押して、高速道路の路肩を歩く。
トラックが猛スピードで駆け抜けるなか、一台だけ動きを見せない迷彩色の車体があった。機関銃ではないがパラボラアンテナを屋根に戴いている、あれはどうみても軍用の装甲車だ。
「どうしてこんなところに装甲車が」と思っていると、その窓がゆっくり開いて、なかから尺の長いスコープが出てきた。それが私の方を向いて、ぴたりと止まった。
鈍感な私も、さすがに気づいた。
これはなにか、とてもよくないことが起きる前触れだ。
私はつとめて平静を装い――ちょっとそこまで「まいばすけっと」で買い物をした帰り道、みたいな気楽なムードを出すようにして――この装甲車を横切った。
装甲車から十分な距離を取って振り向いたとき、私は理解した。装甲車が停まっていたポイントは、イスラエルとパレスチナの国境線、そこからほんのわずかにイスラエル寄りの地点であった。
つまり外形的には、私はパレスチナ側の農園から突如イスラエル側の道路に踊り出してきた不審人物なのであった。おそらく私の外貌が見るからに非武装の(自転車とバックパックしか持っていない)東アジア人だったからか、そこから捕縛・尋問のステップには進まなかった。私はその点では運がよかった。
わざわざ強調するまでもないことだが、これは武勇伝ではなく、ただの愚かな行動である。賢明な読者諸氏に対し、私が伝えたいことは一点だけだ。パレスチナで泥道と荒野のけじめがつかないところに入るのはやめた方がいい。それだけである。
往路で経由したエイザリーヤ行きはなく、ラマッラーにしか行かないという。まあそれなら仕方がない。「国境線の近くで降ろしてくれ」とだけ運転手さんにお願いした。運賃は18シェケル(≒540円)とのことだった。
車内に爆音で流れるアラブ音楽に精神力を削られること1時間弱。私は唐突に「ここで降りなさい」と指示された。
「あっち側に向かって歩くといい」と運転手さんは言う。どこか哲学的な響きを感じさせる指示である。とはいえ「あっち側」は、見る限り漆黒の瓦礫道である。
不安にならざるを得ない展開だったが、ここは彼の言葉を信じるしかない。しばらく歩いていくと、通りすがりのパレスチナ人がイスラエルの検問所まで案内してくれた。パレスチナ人というのはつくづく親切な人たちなのである。
検問を無事に通り抜けて(パスポートのほかにイスラエル入国時にもらった滞在許可証を見せた)、その近くのバス停で、エルサレム行きのバスに乗る。
これでたぶんもう大丈夫だろう。そう思ったら、いままでの疲れが急に出てきた。
そうしてしばらくバスに揺られていると、バババババッ、という破裂音がいきなりあって、すわ銃撃戦かと思って身を伏せた。ところが他の乗客たちにはまるで緊張感がない。
おそるおそる窓の外を眺めると、それは小規模な打ち上げ花火であった。
まったくもう、普通の住宅地でそういうのはやめてくれよな、と私は心のなかで毒づいた。イスラエル軍とパレスチナ・ゲリラの抗争が勃発したのかと焦ったじゃないか。
でもそのとき、ふいに私の内部に明滅するものがあった。
そうか、子どもたちが中指を突き立てたのは、あれはイスラエル軍に対する抗議のサインだったのか。
私はようやくそのことに気がついた。そして、もう二度と会うことはないかもしれないけれど、あの子どもたちに幸運が訪れることを祈って目を閉じた。
「幸運」というのは、つまり中指のサインを必要としない未来のことである。
そのとき私は、荒野にも似たパレスチナの農園を抜けて、イスラエルの高速道路に立ち入っていた。泥まみれの格好で、ぼろぼろの自転車を担いで歩いていた。
外形的には、私はテロリストと同じような行動を取っていたのである。
※ これは「理想の光、暴力の影(イスラエル)」の続篇ですが、この記事だけを読まれても特に支障はありません。
ガザ地区に行くのは断念した
はじめは、ガザ地区に行こうと考えていた。特別な許可がなければ立ち入れないエリアだが、そこで暮らす日本人もわずかにいると聞いていた。せめて国境線(という言葉も使い方が難しいのだけれど)の近くで、その空気に触れてみたかった。そして私には、そうした方面における個人的な「ツテ」がないわけではなかった。
しかし最終的には断念した。出発まぎわに、治安面でかなり緊張が高まっているとの一報があったからだ(その数日後、実際にパレスチナ人4名がイスラエル軍に殺害された)。
私がもしジャーナリストだったら、そうした現場にこそ肉薄すべきだと考えるだろう。でも私はジャーナリストではなかった。ごく平均的な、いや平均よりもいくぶん劣った、しがない2児の父親であった。
そしてまた、私が行き先で肉薄したいのは、事件ではなく「日常」であった。パレスチナのごく普通の人びとたちが、どんな風に暮らしているのか。どんな顔つきをして、どんな歩き方をしているのか。それをこの目で見たかった。そのように思いを巡らせたとき、ガザへの訪問は今回は見送るべきとわかった。
それが失敗のはじまりだった
そこで私は河岸を変えて、ジェリコ(Jericho)を訪れることにした。一説によれば、ジェリコは世界でいちばん古い都市であるという。それから聖書に出てくるジェリコの壁(Walls of Jericho)の逸話が有名らしい。
私は聖書のことをよく知らない。でも映画への愛なら過剰に蓄えている。だから私にとってジェリコといえば、「或る夜の出来事」というコメディ映画である(主人公の男女が相部屋になって、間違いを起こさないために毛布で敷居をつくってジェリコの壁と呼ぶ場面がある)。そういえば「新世紀エヴァンゲリオン」にもこの場面へのオマージュがありましたね。
その数は少ないけれど、イスラエル発ジェリコ行きの現地ツアーも存在する。なんと日本語のツアーまである。でも私はいろいろ考えて、自力で行くことにした。やはりパレスチナ人の日常を見たかったからだ。できれば観光バスではなくて、自分の足で歩きたかった。
いまにして思えば、それが失敗のはじまりだったのだけれど。
アラブの濃度が、にわかに高まってきた
エルサレムからジェリコには、どうやら公共交通機関だけではたどり着けないらしい。Google Mapでも、Rome2rioでも、ある一定のポイントから先の情報が出てこない。30kmくらいの距離を自分の車で行け、あるいは徒歩で行け、というソリッドな結果が示される。
いろいろと考えた結果、エルサレムから263番のバスに乗ってエイザリーヤ(Eizariya)で下車して、そこから乗合タクシー(ユダヤ地区ではシェルート、アラブ地区ではセルヴィスと呼ばれる)でジェリコに向かうという計画を立てた。
2つの反省点
今回のジェリコ訪問において、ロジスティクスの面で痛感した反省点をここに述べたい。他山の石としていただければ幸いである。
(1)前日の宿はエルサレム周辺にすべきだった。私はテルアビブに泊まっていたので、エイザリーヤに行くだけでバスを4回も乗り継がなければならなかった。
(2)現金=シェケルをもっと持参すべきだった。イスラエルでは広くカードが使えると聞いており、事実そのとおりだったが、私の持参したカード(オーストリア銀行のバンコマートとANAのSFCゴールドVISAカード)はなぜか読み取れないことが多くて、手持ちの小銭がぐんぐん減っていった。「次に乗り継ぎを間違えたら現金がショートする・・!」という異様な緊張感、あれは明らかに不必要であった。
今回のジェリコ訪問において、ロジスティクスの面で痛感した反省点をここに述べたい。他山の石としていただければ幸いである。
(1)前日の宿はエルサレム周辺にすべきだった。私はテルアビブに泊まっていたので、エイザリーヤに行くだけでバスを4回も乗り継がなければならなかった。
(2)現金=シェケルをもっと持参すべきだった。イスラエルでは広くカードが使えると聞いており、事実そのとおりだったが、私の持参したカード(オーストリア銀行のバンコマートとANAのSFCゴールドVISAカード)はなぜか読み取れないことが多くて、手持ちの小銭がぐんぐん減っていった。「次に乗り継ぎを間違えたら現金がショートする・・!」という異様な緊張感、あれは明らかに不必要であった。
エルサレムからエイザリーヤまで、バスで6.8シェケル(≒200円) |
私は、旅行中にWiFiを持参しない主義(というほどのものでもないけど)である。ホテルや電車などの無料WiFiを点々と借りながら、飛び石のようにしのいでいく主義である。
だから移動の際には、iPadに保存した各種スクリーンショット画像と、ネット接続なしでも使えるGoogle MapのGPSだけが頼りとなる。
しかし、このGPS機能はエルサレムの都市部から離れるとすぐに動かなくなり、「現在地を特定できません」のメッセージとともに穏やかな死をむかえた。
特定できない現在地から、263番のバスが発車した。
とてもクリーンな内装だった |
このバスには電光掲示板も車内アナウンスもない。乗客も全員アラブ系の人たちだ。隣の女の子に英語で話しかけても、力なく首を振られるばかりである。
通過するバス停にすばやく視線を投げかけてみても、その表記はアラビア語のみ。なかには何の文字も書かれていない「完全ノーヒント系」もある。
アラブの濃度が、にわかに高まりをみせてきた。
表示なきバス停。テロ対策なのかもしれないが、さすがに難易度が高すぎやしないか |
こうした状況にあって私は、バス停ごとに「エイザリーヤ? エイザリーヤ!」とばかみたいに連呼し、運転手さんに自分の存在をアピールすることで、なんとかその駅で降ろしてもらうことにした。
今回の旅では、「困ったらとにかく人に尋ねる」という方針が、いつも以上に求められるのであった。
エイザリーヤに到着 |
おじさんからの魅力的なオファー
セルヴィスはすぐに見つかった。でもこれは乗合タクシーなので、6~10名ほどのお客さんが揃うまで出発しない。そうしないと採算が取れないのだ。15分ほど待って、乗客の頭数が揃う。私以外の全員が地元の人たちだ。出発する前に、念のためパレスチナ・ナンバーの車かどうかを運転手さんに確認したら(イスラエル・ナンバーの越境は法律で禁止されている)、そんなの当たり前だろという反応であった。
高速道路は町を脱して、砂漠をすっと切り裂くように伸びてゆく。道すがらヒッチハイクをしている白人男性がいて驚いたけど、運転手のおじさんは一瞥もくれず、すいすいとジェリコに向かうのであった。
運転手のおじさんは気さくな性格で、「どこから来たの? 日本人? そうかそうか、日本はだいすきだよ」などと距離を詰めてくる。
私としては、初対面の相手に国籍や人種を押し出すようなトークをするのは気が進まない(経験上、あまり愉快ではない展開になるケースがあるので)。でもおじさんはそんなことはお構いなしである。
「よし、それじゃあ今日は、きみのジェリコ観光をみっちりサポートしてあげよう」という話になった。これで20シェケル≒600円というから、まあ悪くない話である。
ジェリコに到着 |
でもジェリコ中心部の雑踏を目にしたとき、私の気持ちは再び変わり、おじさんの申し出を辞退することにした。ここはやはり車に頼らない方がおもしろかろうと思ったのだ。
釣れる寸前の魚を逃したような格好となったおじさんは、そこからしつこく粘ってきたが、同乗客のおばさんが、「いいじゃない、もうこの日本人の言うとおりにさせてあげなさいよ」みたいな助け舟を出してくれて、私は無事に放流された。
おじさんにはちょっと悪いことをしたので、20シェケルをそのまま渡した。ジェリコまでの運賃、プラス、多少のチップという意味合いである。
パレスチナ人民党の事務所らしき建物 |
ボラれていると思われるが、あえてそのままボラれにいく
ジェリコに着いて、私はまず観光案内所を訪れた。そこにはいかにも善良そうなお爺さんがいて、私を日本人と知ると「この建物はJICA(国際協力機構)の支援事業でつくられたんだ。だからきみに御礼を言わせてくれ」と喜んだ。いやいや、私はJICAの職員ではありませんよ、と言っても関係なしである。
好意に便乗する形で、オフィス用のWiFiパスワードを教えてもらった。これで現在地が確認できる。ドラクエでいえば、ようやく教会でセーブできたような安心感だ。
「パレスチナに来てくれてありがとう」とお爺ちゃんは言った。「メッセージや寄付もありがたいけど、実際に来てもらうことが、我々にはいちばん嬉しいことなんだ」
案内所でもらった地図(これもJICAの資金協力でつくられた)を片手に歩いていると、10歳くらいの男の子が「Do you need help?」と話しかけてきた。
「旅先で向こうから話しかけてくる輩はたいてい悪人」という偏狭な世界観を有する私は、はじめ彼を無視していたが、その素朴な笑顔には悪意を感じさせる要素がまったくない。
だんだん申し訳ない気がしてきて、「自転車を借りたいんだよね」と言ってみた。
「ああ、それなら目の前にあるよ」と教えてくれたのが、
この自転車屋さんであった。なるほど、彼の言うとおり目の前にあった。
食事中のおじさんに声をかけて(勤労意欲という概念から完全に解放された風格がそこにはあった)、私はマウンテンバイクを借りることにした。
1日レンタルで、30シェケル≒900円。値段を尋ねてから返答があるまでに一瞬の間があったので「たぶんちょっとボラれてるな」と感じたが、あえてそのままボラれにいくことにした。
というのも、どうもパレスチナに来てから短時間で善意を受けすぎている気がしたからだ。それに所詮は900円である。このあたりでひとつボラれて、貸借対照表のバランスを取らなくてはいけない、と私は思った。
(後日、たぶん同じお店を使った人から、20シェケルだったと伺った。たしかに私はボラれていたのだ)
お金を渡して、自転車を借りる。身分証の提示も、連絡先の登録もなし。いつまでに返してくれとかいった指示もなし。どこまでもシンプルでラディカルな信用経済なのであった。
この自転車をレンタルした。後方に見える巨樹は、 |
新約聖書にも出てくる伝説のザアカイの木 |
シーシャ(水煙草)は28シェケル、特盛のケバブ&ポテトセットは35シェケル |
出会いがしらのアイラブユー
自転車を借りたのは思いつきだったが、これが結果的には正解だった。なぜなら私が自転車を漕いでいるだけで(タイヤの空気がすかすかでスピードが出ない)、道行く人からもれなく笑顔で話しかけられるからだ。
「どこに行くんだい?」
この道に沿って、とりあえず進むよ。
「ハロー!」
ハロー!
「ニーハオ!」
コンニチワ!(おれは日本人だぞ、というニュアンスを込めて)
「調子はどうだい?」
いい感じだよ。
「パレスチナは好きかい?」
いま好きになっているところだよ。
「マネーマネーマネー!」
(こらっ、とお母さんに小突かれる男の子)
なかには「アイラブユー」と言ってくる小さな男の子もいて、思わずにっこりしてしまう。出会いがしらに愛していると言われるなんて、なにしろ人生ではじめてのことである。
1万年前の住居跡もあるテル・アッスルターン。傍目には単なる工事現場に見える |
それはつまり、遺跡の風化を防ぐための投資が足りていないということなのだろう |
子どもたちは笑顔で中指を突き立てた
それから私は、エル・スルターン難民キャンプの敷地に入っていった。最初からここに行こうと決めたわけではない。観光マップを眺めていたら、近くに難民キャンプがあるとわかったので、純粋な好奇心で行ってみたのだ。
セキュリティ・ゲートの類はないので、するっと立ち入ることができる。でも区域内に入ると、住居の「ぼろぼろ度」の目盛りが2つくらい進んだような印象がある。
UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)設立の学校。1,000人以上の学生がいる |
UNRWAによれば、水不足(特に夏季)と下水道の未整備が喫緊の課題 |
野良猫の姿をあちこちで見かけた。栄養状態は悪くなさそうだけど |
建築途中なのか、解体途中なのか、それともただ放棄された建物なのか |
子どもたちの歓声があちこちで聞こえてくる。
パレスチナの子どもたちは、だいたい彼らだけで遊んでいる。監督するおとなの姿は見当たらない。余裕がないのか、のどかだからか、ヨーロッパではまず見かけない光景である。
でも昭和初期の日本の子どもたちって、こういう感じだったのかもしれない。そんなことを思いながら気ままに自転車を漕いでいると、
まさにそんな感じの集団がやってきて、
私に向かって、むちゃくちゃにイイ笑顔で中指を突き立ててきた。
中指を立てるというのは、「ファック・ユー」、つまり「ぶち殺すぞ」という意味を持つ。まあ普通に考えると、強烈な敵意が私に向けられていることになる。
とはいえ、このはじけるような笑顔は、どうしたって敵意とは結びつかない。
これは一体どういうことなのか。
混乱しているうちに、私は子どもたちに囲まれた。「どこから来たの?」とか「カッコいいだろ、この馬」みたいなことを言っている・・・たぶん。子どもたちはほんの少ししか英語を解さないので、どうしても「たぶん」交じりの、身ぶり手ぶりの対話になる。
「中指を立てるサインには、なにか宗教的な意味があるの?」と尋ねたら、どういうわけか爆笑された。よくわからないけど、とにかく皆がたのしそうなので、私も笑った。
ひとりだけスマホを持った子どもがいた。画面は馬に踏まれたんじゃないかってくらい割れまくっていたけど、でもスマホはスマホだ。
「一緒に写真を撮ろうよ」と誘われ、私は馬に乗った少年たちと一緒に中指を突き立てた。
むちゃくちゃにイイ笑顔で。
「あっ、これはちょっと死ぬかもしれない」
子どもたちと手を振って別れた私は、次の目的地であるヒシャーム宮殿に向かった。観光案内所で復活したGoogle MapのGPS機能がまだ生きていたので、そのルートに従って自転車で走った。
ところが、なんだか様子がおかしい。
道の舗装がなくなって、さらに泥道と荒野のけじめがつかなくなってきたのだ。
そこへ、なにかが動く気配があった。見ると、
犬であった。
舗装されていない道で、犬が出てくる。
経験からすると、これは明確によくない状況である。
私はこれまで、バークレーとウェストパームビーチの2カ所で、それぞれ野良犬(あるいはホームレスの飼い犬)に真剣に追い詰められたことがある。どちらも怪しげな区画に侵入した私の失策、というか自業自得なのだが、あれには本当に肝が縮んだ。
不吉な予感というのはなぜか的中するもので、犬の数はたちまち10匹ほどに増え、私は前後を塞がれた。
Google Mapの現在地を確認すると、私はまだ難民キャンプ前の大通りにいることになっている。私はやっと理解した。再びGPSの圏外に入ってしまったのだ。
そしてここはおそらく誰かの農園である。私は白昼堂々の侵入者であって、番犬たちはいま忠実にその職務を遂行しているというわけだ。
犬たちは猛烈な勢いで私に吠えたてる。
私は彼らの言語を解さないが、おそらく「ファック・ユー」、つまり「ぶち殺すぞ」という意味ではないかと推察された。
私を取り囲む犬たちの同心円が、徐々に小さくなってきた。
「あっ、これはちょっと死ぬかもしれないな」と唐突に思った。
村上春樹に救われた
しかし私は、ここで少しだけ冷静になった。落ち着いて観察してみよう。次の一手は観察から生まれる。そう自分に言い聞かせた。この犬たちには、狂犬病らしき徴候はみられない。これは安心材料のひとつである。
そして犬というのは、自分より弱いものに襲いかかり、強いものに従う生き物だ。
なめられてはいけない。
そのとき私が瞬間的に思い出したのは、村上春樹の「遠い太鼓」で、村上さんがシチリア島のパレルモで犬を怒鳴りつけるシーンだった。
それである日、僕はこちらからつかつかと犬のほうに寄っていった。そして犬と僕とは正面からじっと睨み合った。僕が身をかがめて「んのやろー」という目付きで睨みつけると、犬のほうも「お、そーいう気か」という風にううううと低くうなりながら、睨み返してきた。僕もこんなに真剣に意識的に犬と喧嘩したのは初めてだったので、最初のうちどうなるものかいささか心配だったのだが、そのうちにこれはこっちの勝ちだと確信した。犬の目の中にとまどいの影が見えたからである。僕のほうから犬に向かっていったことで犬は犬なりに混乱してとまどっていたのだ。こうなればあとは簡単である。案の定、五、六分睨み合ったあとで一瞬犬が目をそらせた。その一瞬を狙って、僕は十センチくらいの至近距離から犬の鼻先めがけてあらん限りの大声で (もちろん日本語で)、
てめえ、ばかやろお、ふざけんじゃねえよ!
と怒鳴りつけた。それ以来その白犬は一切僕を追い掛けてこなくなった。ときどき僕のほうが冗談で追い掛けると逃げていくようになった。きっと怖かったんだろうな。でもやってみると、犬を追い掛けるというのは、けっこう面白いものだ。
てめえ、ばかやろお、ふざけんじゃねえよ!
と怒鳴りつけた。それ以来その白犬は一切僕を追い掛けてこなくなった。ときどき僕のほうが冗談で追い掛けると逃げていくようになった。きっと怖かったんだろうな。でもやってみると、犬を追い掛けるというのは、けっこう面白いものだ。
引用:村上春樹「遠い太鼓」 講談社 「南ヨーロッパ、ジョギング事情」
私は村上春樹の熱心な読者である。なかでも同氏が30~40代の頃に執筆した「滞在記もの」を愛する者である。瀬戸内海の無人島で虫をいじめたり、オーストリアの田舎で車がイカれて奥さんと喧嘩したり、なんというか作者の人間として未熟な部分が絶妙に醸し出されていて、読むたびに特別なシンパシーを感じるのだ。
そういうわけで、私は自転車を立ち漕ぎしつつ(身体を大きく見せて威嚇するという動物的行動)、若き日の荒ぶる村上さんに倣って、
おらあ、どけどけぃ、ぶっとばすぞこのやろおおおお!
と、犬たちに日本語で怒鳴りつけたのであった。
するとこれが効果てきめんで、犬たちは爆走する自転車からあわてて逃げ出した。犬たちとしても、まさかこの東アジア人がいきなり反撃に出るとは思わなかったのだろう。
村上春樹のおかげで、私は窮地を脱したのであった。
装甲車の窓がゆっくりと開いた
窮地は脱したが、問題は残っていた。荒野(のような農園)の先には高速道路が走っていて、その手前には深さ2メートルの壕がある。「どうぞお通りください」という雰囲気は、ひとかけらも見当たらない環境だ。
後ろを振り向くと、さっきの犬たちがまだ私の様子を窺っている。こちらもウェルカムな気配は皆無である。
前門の高速道路、後門の犬たち。
私は前進することにした。やがて地面がぐじゃぐじゃになって、ついには自転車が漕げなくなったので、肩に担いで歩いていった。だんだん映画「大脱走」みたいな状況になってきた。
なんとか道路に立ち入って、農園を大きく迂回する形でジェリコの町へと戻ることにした。砂漠のなかでひとつだけ建物が密集しているエリアがあるので、そちらに向かえば間違いないと思われた。
自転車を押して、高速道路の路肩を歩く。
トラックが猛スピードで駆け抜けるなか、一台だけ動きを見せない迷彩色の車体があった。機関銃ではないがパラボラアンテナを屋根に戴いている、あれはどうみても軍用の装甲車だ。
「どうしてこんなところに装甲車が」と思っていると、その窓がゆっくり開いて、なかから尺の長いスコープが出てきた。それが私の方を向いて、ぴたりと止まった。
鈍感な私も、さすがに気づいた。
これはなにか、とてもよくないことが起きる前触れだ。
私はつとめて平静を装い――ちょっとそこまで「まいばすけっと」で買い物をした帰り道、みたいな気楽なムードを出すようにして――この装甲車を横切った。
装甲車から十分な距離を取って振り向いたとき、私は理解した。装甲車が停まっていたポイントは、イスラエルとパレスチナの国境線、そこからほんのわずかにイスラエル寄りの地点であった。
つまり外形的には、私はパレスチナ側の農園から突如イスラエル側の道路に踊り出してきた不審人物なのであった。おそらく私の外貌が見るからに非武装の(自転車とバックパックしか持っていない)東アジア人だったからか、そこから捕縛・尋問のステップには進まなかった。私はその点では運がよかった。
わざわざ強調するまでもないことだが、これは武勇伝ではなく、ただの愚かな行動である。賢明な読者諸氏に対し、私が伝えたいことは一点だけだ。パレスチナで泥道と荒野のけじめがつかないところに入るのはやめた方がいい。それだけである。
8世紀に建てられたというヒシャーム宮殿の遺跡 |
いきなりの破裂音
ジェリコに小さくさよならを告げて、私は帰りのセルヴィスに乗りこんだ。往路で経由したエイザリーヤ行きはなく、ラマッラーにしか行かないという。まあそれなら仕方がない。「国境線の近くで降ろしてくれ」とだけ運転手さんにお願いした。運賃は18シェケル(≒540円)とのことだった。
車内に爆音で流れるアラブ音楽に精神力を削られること1時間弱。私は唐突に「ここで降りなさい」と指示された。
「あっち側に向かって歩くといい」と運転手さんは言う。どこか哲学的な響きを感じさせる指示である。とはいえ「あっち側」は、見る限り漆黒の瓦礫道である。
不安にならざるを得ない展開だったが、ここは彼の言葉を信じるしかない。しばらく歩いていくと、通りすがりのパレスチナ人がイスラエルの検問所まで案内してくれた。パレスチナ人というのはつくづく親切な人たちなのである。
そういえば往路に検問所はなかったな |
検問を無事に通り抜けて(パスポートのほかにイスラエル入国時にもらった滞在許可証を見せた)、その近くのバス停で、エルサレム行きのバスに乗る。
これでたぶんもう大丈夫だろう。そう思ったら、いままでの疲れが急に出てきた。
そうしてしばらくバスに揺られていると、バババババッ、という破裂音がいきなりあって、すわ銃撃戦かと思って身を伏せた。ところが他の乗客たちにはまるで緊張感がない。
おそるおそる窓の外を眺めると、それは小規模な打ち上げ花火であった。
まったくもう、普通の住宅地でそういうのはやめてくれよな、と私は心のなかで毒づいた。イスラエル軍とパレスチナ・ゲリラの抗争が勃発したのかと焦ったじゃないか。
でもそのとき、ふいに私の内部に明滅するものがあった。
そうか、子どもたちが中指を突き立てたのは、あれはイスラエル軍に対する抗議のサインだったのか。
私はようやくそのことに気がついた。そして、もう二度と会うことはないかもしれないけれど、あの子どもたちに幸運が訪れることを祈って目を閉じた。
「幸運」というのは、つまり中指のサインを必要としない未来のことである。
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