壊されなかったのは偶然だった(クラクフ)

クラクフ行きを決めたのは、ポーランド政府職員(課長級)のAさんに「観光するならどこがいい?」と尋ねたら、「クラクフ」と即答されたからだ。


クラクフ
クラクフの旧市街


 このとき私は、工業都市・カトヴィツェに出張していた。愁いと優しさが混淆した人びとの顔つき、どこか薄暗くも端正な街並み。ポーランドのことが、一気に好きになった。というよりも、嫌いになる要素がひとつも見つからなかった。

「クラクフは、ポーランドで最も歴史ある街。僕の職場があるワルシャワよりもずっといい」とAさんは笑う。

「そしてここは、ナチスドイツに壊されなかった街でもある。近隣の街は、軍にあらかた破壊されて、軍事基地強制収容所になった。でもクラクフは――少なくともそのインフラは――生き延びた。それからカトヴィツェもね」

 なぜですか?

「まあ、あとから理屈をつけるのは簡単だけど、実際のところは偶然だと思うよ。たまたま、破壊の手がそこまで及ばなかった。壊される前に戦争が終わったんだ」

 たまたま壊されなかった古都、クラクフ。

 クラクフに行ってみよう、と私は思った。
 そうして2週間後のホテルを予約した。


ワルシャワ蜂起(1944年)で製造された即席装甲車・クブシュのプラモデル
ワルシャワ蜂起(1944年)で製造された即席装甲車クブシュのプラモデルがあった

ポーランド・カトヴィチェで買った共産圏の貨物列車プラモデル
でも子どもたちには共産圏の貨物列車を買った(しばらく隠して、正月に開封した)


ÖBBの運賃は、なぜJRよりも安いのか

ウィーン~クラクフは、飛行機で行けばわずか1時間。でも我々は電車に乗った。国鉄ÖBBの夜行列車Nightjetで、家族4名で往復74ユーロという破格の値段だったからだ。

 この便に限らず、ヨーロッパは全体に移動コストが日本より安い。私の思うところ、これは公共交通機関の世界にも競争原理が働いているからだ。

 たとえばオーストリア国内の主要路線は、国鉄ÖBBだけでなく、Westbahnという私鉄も走っている。ÖBBはWestbahnに不便なプラットフォームを割り当てるなどの嫌がらせをしているらしいけど(噂です)、Westbahnも負けじと駅でチラシを配ったりしてがんばっている。

 しかも競合他社は国内のみならず、ドイツ鉄道DBとか、ハンガリー鉄道MÁVとか、チェコ鉄道ČDといった隣国の強豪たちもいる。こういう環境にあるÖBBの料金設定は、一部の路線を除いて独占に近いJR東日本とはすべからく違ってくる・・・というのが私の仮説である。


最下等の席が、いちばん快適なのではないか

Nightjetに乗るのはデュッセルドルフ旅行に次いで2回目。今回はよりストイックに、最下等のクラス、つまりベッドではなく椅子の席を選んだ。

 「椅子の席」というのは、


オーストリア鉄道ÖBBの6人掛けの席


 このような6人がけのボックスシートのことである。

 それぞれの席は、調節すると後ろに倒せるようになっていて、


オーストリア鉄道ÖBBの6人掛けの席


 こんな感じに、ほとんど「個室のフルフラット・シート」みたいになる。

 ウィーン発・リュブリャナ行きのスロバキア鉄道ŽSRで、このタイプの個室を我々4名で独占したことがある。こんなに快適で、こんなに安くて、もしかしてこれは最高じゃないか、と私は思った。最高だった。

 この成功体験(?)に味をしめた私は、「Nightjetって、あるいは最下等のクラスが最も快適なんじゃないか」との考えに至り、今回の夜行列車で椅子の席を予約した。

 結果的には、これが大いなる判断ミスであった。


「お前の足は臭い」

最大のミスは、幼児の座席予約がシステム的に不可能であることに後日気づいたことである(幼児はもともと乗車券が無料なので、席の予約はできないのだ)。

 このため、ワースト・シナリオとして、2人分のシートに4人で座る事態を覚悟しなくてはならない状況となった。

 それでも往路は運がよかった。同室の老夫婦が我々のために席を移動してくれて、連続する4席を4名で使うことができたのだ。

 だが復路は、「列車が予定より早く到着したのに気づかない」という私の痛恨のミスにより自由席を1席しか確保できず(註:予約のないシートはFirst Come First Served=早い者勝ちが原則である)、さらに奥さんと私は部屋も別々という厳しい展開となった。

 そういうわけで、3人で2席を分け合う「奥さん+息子チーム」の苦労には並々ならぬものがあったが(奥さんは片道8時間を体育座りで過ごした)、




このバスタブくらいの空間をアラブ系中年男性(推定体脂肪率:35%)と密にシェアする私の方もなかなかであった。

 しかもこのアラブ男、同室の女の子にしつこく話しかけたり、消灯後に大声で電話したり、寝しなに「ブヴッ!」と屁をこいたり、とにかくやりたい放題な輩であった。さらには眠っていた私を叩き起こして、

「お前の足、臭いよ!」

みたいなことをアラビア語か何かで言ってくる(鼻をつまんで顔を歪めてたから、間違いなくそういう意味だろう)。

 いや、たしかに私の足は臭かったかもしれない。靴下が濡れていて邪悪なにおいを放っていたかもしれない。そこは申し訳ないのだけれど、でも寝ている人をわざわざ起こしてまで伝える台詞だろうか。目が覚めて最初に聞く言葉が「お前の足は臭い」なんてことありますか。

 まあそういうわけで私としては(奥さんに叱られたこともあって)しばらく夜行列車は遠慮したいな、という気持ちが強くあるのだが、子どもたちは逆にそういう非日常が愉快であったらしく、「パパ、またNightjetに乗ろうよ!」などと言ってくる。

 私は、「ああ、そのうちね」とはぐらかす。そして自分の足のにおいをそっと嗅ぐ。


ポーランドの古都・クラクフの二頭立て馬車


夕暮れの古都は中世の趣き

 11世紀以来ほぼ600年にわたってポーランド王国の首都だったクラクフは、17世紀初頭にワルシャワへ王宮が完全に移った後も、戴冠式や王の葬儀を執行し続けたという点で京都にも似た、文字通りの王都。

 1300年頃の街の城門でもあるフロリアンスカ門やヨーロッパ最大のバルバカン(円形の防塁)、60とも70とも数え得る苔むした教会群、コペルニクスの学んだヨーロッパでも最も古い部類に入るヤギェウォ大学の建物などがひしめくだけでなく、それらが生活の中で生きている、中世都市の貴重な典型である。


 11月初旬のクラクフは、観光客もまばらで、それほど寒くもなく、夕暮れの古都には中世の趣きが漂う。期せずして、散歩をたのしむにはベストシーズンだったようだ。


観光客の数は(街並みの美しさに比べて)驚くほど少ない

かつてポーランド国王が住んでいたというヴァヴェル城(Wawel Royal Castle)
ヴァヴェル城(Wawel Royal Castle)には、かつてポーランド国王が住んでいたという


 我々が宿泊したのは、Apartments Romanというアパート型ホテル。旧市街の真ん中にあって、100平米の広さで、ベッドが4つあって、これで1泊あたり6,500円。こんなに安くて大丈夫かよと思ったが、完全に大丈夫だった。

 古風な家具のセンスもすばらしく、以前仕事で泊まった中東某国の5万円のシャングリラ・ホテルなんかよりもずっとよかった。家族旅行の方には特におすすめです。


机が立派すぎて、子どもが社長みたいになった
机が立派すぎて、子どもが社長みたいになった


ここではメニューの値段におびえなくてもいい

クラクフで最も嬉しかったのは、まあ器の小さい話ではあるのだが、物価がずいぶん安かったことだ。

 レストランに行くときも、テラス席に置いてあるメニューを盗み見て、値段におびえなくてもいい。「4名様でよろしいでしょうか」とウェイターに言われて「あ、いま用事を思い出しました」などとみじめな噓をつかなくてもいい。この文脈においてクラクフ滞在は(大げさに言えば)外食面における心の平安を取り戻した日々であった。

 欧米の飲食店は日本よりも高い、とは多くの人が指摘することだけれど、これは正確には「日本の飲食店には『おいしくて安い』第4象限のカテゴリがちゃんとある」ということだと私はつねづね思っている。

 これをプレゼン資料風に図解すると、欧米の飲食店には、




といったように、値段と味に正の相関があって、「おいしいけど高い」「安くてひどい」の2グループに収束していく傾向にある(「ひどくて高い」店もたまにあるけど、基本的には市場原理で淘汰されていく)。

 これに対して、日本の飲食店は、




と、このように「おいしくて安い」というグループがきちんと存在しているのだ。

 経営学的にいえば、このグループのお店はたぶん「適切なプライシング(価格設定)をしていない」ことになるのだろう。あるいは公共政策学的にいえば、「こういうデフレの過当競争が日本経済の停滞を招いている」のかもしれない。

 でも正否の判断をいったん脇に置いて、ヨーロッパの片隅で「安くてひどい」店を渡り歩く私としては、それこそが日本のすばらしさだよね、と遠い目でつぶやきたくなるのである。

 ・・・などという自説を気持ちよく反証してくれたのが「おいしくて安い」クラクフのレストランたちであった。餃子みたいなピエロギも、にしんのマリネも、猪や鹿などのジビエ料理も、ウィーンに比べればずいぶんリーズナブルな値段なのである。


ポーランド・クラクフの街並み

駅前のスーパーにて、次に並ぶべきレジが表示される画面。すばらしく効率的だ


マンガ博物館でおにぎりを食べる

さらに食べ物の話を続けると、マンガ博物館の併設カフェでは、思いがけず廉価な日本料理を味わうことができた。

 マンガ博物館とは、正式名称を日本美術技術博物館・マンガ館(Muzeum Sztuki i Techniki Japońskiej „Manggha”)といって、フェリクス・"マンガ"・ヤシェンスキという人が収集した美術品を展示する施設である。だから「マンガ」という名に期待して行くと、わりに肩すかしを食うことになる。実をいうと私もそのひとりだ。

 博物館の展示自体はそこまでエキサイティングではなかったけれど(すみません)、上述の併設カフェがむしろ出色だった。おにぎり3個で450円、白飯と味噌汁のセットで300円、どら焼き270円と、ちょっとヨーロッパでは考えられないような安さなのだ。

 このカフェには入場料を払わずとも行けるので、特に海外在住の日本人の方などは、ここを目当てに来たっていいんじゃないかと思うほどであった。


日本美術技術博物館・マンガ館(Muzeum Sztuki i Techniki Japońskiej „Manggha”)の併設カフェ
カフェの利用客は、ほとんどがクラクフの住民だった

日本美術技術博物館・マンガ館(Muzeum Sztuki i Techniki Japońskiej „Manggha”)の併設カフェ
畳敷きの遊び場もあった。子どもたちにせがまれて、結局2日連続で来た

ポーランド・クラクフ郊外にある日本美術技術博物館・マンガ館(Muzeum Sztuki i Techniki Japońskiej „Manggha”)
「多目的ホール」という言葉が懐かしくて、涙が出そうになった

ポーランド・クラクフ郊外にある日本美術技術博物館・マンガ館(Muzeum Sztuki i Techniki Japońskiej „Manggha”)
「デザインあ」の「もん」を思わせるコースターをお土産に買った

ポーランド・クラクフ郊外にある日本美術技術博物館・マンガ館(Muzeum Sztuki i Techniki Japońskiej „Manggha”)
アンジェイ・ワイダ、常陸宮 正仁親王、そして瀬島龍三・・・!

ポーランド・クラクフ郊外にある日本美術技術博物館・マンガ館(Muzeum Sztuki i Techniki Japońskiej „Manggha”)
・・・・・・!


Uberで乗車拒否される

クラクフにはバスやトラム(路面電車)があちこちに走っているのだが、なぜかGoogle Mapの経路案内にはあまりフォローされていない(このときはまだRome2rioを知らなかった)。

 交通網の詳細情報がGoogleに届いていない「途上国パターン」か、それとも政府当局がGoogleへの情報提供をあえて制限している「韓国パターン」か、どちらかはわからないけれど(どちらもあり得そうではある)、いずれにせよ旅行者には不便なことである。

 そういうわけで、旧市街からマンガ博物館へUberで行こうとしたのだが、なんと「幼児連れはダメ」と乗車拒否されてしまった。たぶんチャイルドシートを備えつけていないからだろうけれど、Uberを昔から利用している私にとってもこういう展開は初めてだ。

 ここで困ったのは、キャンセル料が当方100%負担の仕切りになっていたことだ。「よし、本社にクレームを入れよう」と一瞬思ったけれど、そもそもの乗車料金が約300円という安さだったので、そのまま放念することにした。

 クラクフに子連れ旅行をされる方は、このあたりにご留意されるとよいかもしれない。
 (結局、博物館にはトラム&徒歩で行きました)


ポーランド・クラクフのトラム(路面電車)

ポーランド・クラクフの公園


カジミエシュ地区の盛衰と再興

クラクフの東西南北を節操なく歩き回って、個人的に最も興味を惹かれたのはクラクフ南部のカジミエシュ地区(Kazimierz)であった。

 カジミエシュというのは、14世紀半ばにポーランドを治めた国王の名前だ。大王(Wielki)と称され、この地区を独立都市として発展させた貢献者でもある。

 この王さまは、当時から迫害されていたユダヤ人にも寛容的な政策を取っていた。このため移住者の数もどんどん増えていって、15世紀末にはユダヤ人の「駆け込み寺」としてすっかり定着していたらしい。

 ところが、ナチスドイツのホロコースト(大量虐殺)で、ユダヤ人の居住者は65,000人から6,000人にまで減ってしまった。それから長らくこの地区はスラム街も同然だったが、最近になってレトロ・モダンで瀟洒な小都市として、改めてユダヤ人たちの安息の地として、復興を遂げるに至ったのである。


ポーランド・クラクフ南部のカジミエシュ地区(Kazimierz)


 カジミエシュは、クラクフから文字どおり地続きになっている。カトリック地区もユダヤ教地区も、どちらもヴィスワ川の内側にあって、それでいて両者の境界線ははっきりしている。だから知らないで歩いていると、街並みがいきなりユダヤっぽくなって驚くことになる。そのギャップが私にはおもしろかった。


ポーランド・クラクフ南部のカジミエシュ地区(Kazimierz)にあるシナゴーグ
シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)があちこちにある


 ホロコーストの歴史に関心のある人は、カジミエシュのガリシア・ユダヤ博物館(Galicia Jewish Museum)を訪れることになるだろう。

 博物館の趣旨からして、やはり哀しみを誘う展示が多い。そのなかにひとつ、素朴な草原の風景を切り取った写真があった。

 説明文を見ると、「ここには古くからシナゴーグがあったが、ナチスドイツによって完全な更地にされた」とある。

 NHKのドキュメンタリー番組「映像の世紀」に出てきた、ソ連のある田舎の更地――かつて共産党幹部の一家が住んでいたが、政争に敗れて家屋の存在ごと無かったことにされた――が不意に思い出された。

 この救いなき世界では暴力がさまざまな形をとって現われるが、最もおそるべきは、そこに存在した痕跡をすべて消すという発想に基づく暴力ではないか。「しるし」が無ければ、痛みを伝えることすらままならないのだから。


ポーランド・クラクフ南部のカジミエシュ地区(Kazimierz)にあるシナゴーグ
一部のシナゴーグには、寄付金を払えば入場できる(撮影も可)


To be continued...

ホロコースト生存者の多くがイスラエルに新天地を求めたのは、歴史が伝える事実である。

 そして時代は下り、今度はイスラエルからカジミエシュに移住するユダヤ人が増えている。再起不能と見なされていたコミュニティが、いま新たなベクトルから捉え直されているのだ。
(参考:BBC - Andy Jarosz "New life in Krakow's Jewish quarter"

 現在と過去はひとすじにつながっている、と私は思った。そしてまた、20世紀の矛盾を丸ごと抱えたようなイスラエルという難しい国を訪れるなら、いまウィーンに住んでいるこの時期がベストではないか、と唐突に思った。

 イスラエルのベン・グリオン国際空港に到着したエアバスA320機のタラップを降りてすぐ、係官に捕まった私が取り調べを受けるのは、このクラクフ旅行から7週間後のことであった
 

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