オーストリア航空で6万円のチケットを誤発注した

オーストリア航空は、日本でいうJALやANAの位置づけにある航空会社である。いわゆるレガシー・キャリアというやつだ。

 だから運賃はそれほど安いわけではない。でも何事にも例外というものがあって、たまにLCC(格安航空会社)にも負けない料金でセールをやったりもする。

 私はこのセール情報をよくチェックしていて、これが生活の小さなたのしみになっている。


オーストリア航空のセール画面
オーストリア航空の特設ウェブサイトより。セール対象は頻繁に変わる


購入ボタンをクリックした

ある秋晴れの日、「ウィーン ~ ヴァルナ:往復69ユーロ」という文言に私は出会った。

 ヴァルナという名前はちょっと聞いたことがない。調べてみると、黒海に面したブルガリアの港町とのことだ。ウィーンよりも暖かい。冬の寒さから逃げるにはちょうどよい。

 「1949年から1956年までは、ヨシフ・スターリンの名をとってスターリン (Сталин, Stalin) という都市名であった」というWikipediaの記述にも心を惹かれた。

 これはもう、行くしかない。

 私は、家族4名分のチケット購入ボタンをクリックした。


クリックした1分後にあやまちに気づいた

オーストリア航空からの自動確認メールを流し読みして、私の視線はある一点に集中した。

 出発の便が「11月」になっている。

 私はクリスマス休暇に予約を入れたはずだ。クリスマスという概念は、一体いつから11月に前倒しになったのか?

 いや、ちがう。

 これは、私の発注ミスだ。

 そしてその時期には、日本に一時帰国するという予定がすでにある。

 すぐに購入を取り消さなくてはいけない。

 ええと、キャンセル・ポリシーについてはどうなっているんだっけ・・・


オーストリア航空のチケットはキャンセル・返金不可という断り書き


・・・


オーストリア航空のチケットはキャンセル・返金不可という断り書き2


・・・


オーストリア航空のチケットはキャンセル・返金不可という断り書き3


・・・!?



 私の背中に、氷の塊を差し込まれたような感覚が走った。


ベートーヴェンのことを考えた

そのとき、私の頭に瞬間的に浮かんだのは、ルードィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのことであった。

 ベートーヴェンは、若くして音楽家としての名声を得たが、不幸にも難聴の病に襲われた。深い苦悩があったが、彼の才能はそこからさらに開花した。「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」との言葉を後世に残した。

 一般世間には容易になじまない難しい性格の人で、夜中も騒音がすごかったので何度もアパートを追い出された。だからウィーンには「ベートーヴェンの家」があちこちにある。

 ベートーヴェンの生涯には興味深いできごとがたくさん起こった。

 しかし、ここでいくらベートーヴェンの生涯を掘り下げていっても、いま私が直面している「チケット誤発注問題」の解決には、何の役にも立たないだろう。

 私はそのことに気がついた。

 ベートーヴェンのことを考えている場合ではないのだ。


量子力学的なアイデアについて考えた

そこで私は、具体的な解決策について考えをめぐらせた。

 ひとつ思ったのは、量子力学的なアイデアでこの状況を突破できないか、ということだ。

 これはどういうことか。

 量子力学に基づく世界観には、「世界のすべては、観測とは無関係に、あらゆる状態の重ね合わせである」というものがある。(エヴェレットの多世界解釈

 この説を敷衍すれば、「ヴァルナに旅行する私」と「日本に一時帰国する私」を同時に存在させることも不可能ではないのではないか?

 これは名案であるように思われた。

 しかしひとつだけ難点があるとすれば、それをどうやって実現すればいいかよくわからないことであった。複数の私を同時に存在させる?

 名案と思われたアイデアは、狂人のアイデアであった。


お客さま相談窓口にメールをした

次に考えたのは、より現実的な解決策である。オーストリア航空の「お客さま相談窓口」的なフォームから、返金を乞うメッセージを送るというものだ。

 先ほど間違えて購入ボタンをクリックした。チケットは日付変更も返金もできないとされているが、どうかご容赦ありたい。私は貴社のサービスを常より愛する者である。敬具。

 そんなことを書き連ねて、送信ボタンを押した。

 これで事態は前進するだろうか?

 しないだろう、と私の直感が告げていた。

 きっと3週間後あたりに、「親愛なるお客様」宛ての返信がメールボックスに届くだろう。そのメールは「このたびは貴重なご意見をありがとうございます」ではじまり、「誠に申し訳ございませんが、何卒ご了承ください」で終わるのだ。

 「この回答はお役に立ちましたか?」

 お役に立ちましたか? じゃないよまったく、と私は虚空に向かって毒づくのだ。

 6万円を音もなく吸い込んだ虚空に向かって。


希望の光を発見した

しかし、漫画「スラムダンク」の安西先生の名言にあるように、あきらめたらそこで試合終了である。

 もっとも世の中には早めにあきらめた方がよい物事もたくさんあるが(泥沼になったプロジェクトへの投資判断とか)、それはまた別の話である。

 安西先生に勇気づけられた私は、オーストリア航空の定款の類を穴のあくほど読み込んだ。するとそこに一筋の希望の光があった。

 それは「Customer Service Plan」と称されたページで、「お求めやすい料金を提供」とか「手荷物のお届けを迅速に」とか、そうした按配のことが書いてあるのだが、その第4項に、

In case you have already purchased your ticket and you would like to change your travel itinerary we allow to cancel a reservation within 24 hours. 

と記されているのである。予約から24時間以内なら返金は許される?

 許してほしい、と私は思った。これまでの過ち、そのすべてを許してほしい、と。


希望の光がプリズム反射した

ここで一抹の疑問が生じる。

 「Customer Service Plan」には、たしかに返金できるといった意味のことが書いてある。

 他方で、私が受信したeチケットには、はっきり「返金不可」と書いてあるのだ。

オーストリア航空のチケットはキャンセル・返金不可という断り書き4

 これは、どう解釈すればよいのか。

 法律学における「上位法優位の原則」にしたがって(例:憲法は法律よりも優先される)、Customer Service Planの「返金可」を優先してよいのか。

 それとも「特別法優先の原則」にしたがって(例:特商法は民法よりも優先される)、チケットに記された「返金不可」を優先するべきなのか。

 私が見つけた一筋の希望の光は、その解釈にあたって予想外のプリズム反射をみせ、ふたつに分かれてとらえどころを失ってしまった。


キャンセルのボタンをクリックした

それから1時間後。オーストリア航空のページに再び「ログイン」した私は、「このフライトをキャンセルする」というボタンが出現しているのを見つけた。

 脊髄反射的に、このボタンをクリックした。

 「フライトがキャンセルされました」みたいな意味内容のメッセージが現れて、私の気持ちは勝利に傾いた。これでもう大丈夫だ。きっと大丈夫だろう。大丈夫であろうことへの蓋然性がにわかに高まりを見せてきた。

 だが次の瞬間に、私は気づいた。返金に関する記述がどこにもない、と。

 私の横隔膜が痙攣して、声門がキュッと閉まっていった。


ツイッターのアカウントを作成した

いよいよカスタマーサポートに電話をするタイミングかもしれない、と私は思った。

 しかし、そのとき急に閃くものがあった。

 ツイッターにおけるオーストリア航空の公式アカウントに、直接メッセージを送ればいいのではないか。


 なぜなら、一般にツイッターの企業アカウントというのは、職員が高い頻度でチェックしていると考えられるからである。だからそこにメッセージを送れば、時をおかず返答が得られる公算が高い。勝手口から家宅に侵入するような考え方だが、アイデアとしては悪くないのではないか。

 そこで私は、まずツイッターのアカウントを作成し、すぐにダイレクト・メッセージを送信した。

 予約番号とともに発注ミスの経緯を手短に説明し、「貴サイトには24時間以内なら返金可とあるが事実か。ご対処いただければ幸甚である」というラインで押すことにした。

 するとどうだろう、それから2時間後に、「あなたのチケットは発券される前にキャンセルされたので料金は発生しない。まもなくリリースされるだろう」との回答が得られた。

 私は瞑目して両掌を合わせた。6万円は、虚空から再び現実に戻ってきたのである!


ウィーンの郊外・ドナウ川の眺め


 ちなみに、ヴァルナに行く予定はいまのところない。

 しばらくしてオーストリア航空のセール対象から外れてしまったからだ。
  

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