ウィーンの路上の表現者たち

ウィーン国立歌劇場(オペラ座)からシュテファン大聖堂に抜ける道路を、ケルントナー通り(Kärntner Straße)といって、ここはウィーンで最も有名な通りのひとつである。

 古代ローマの時代にはすでに存在していたとされるこの大通りは、自宅から最寄りの地下鉄Stephansplatz駅に向かう私の通勤路でもある。だからこの道を歩かない日はないのだが、いつも何かしらパフォーマンスや催しが行われている。

 年末にはクリスマス・マーケットが並びたち、初春にはカーニバルの仮装行列が練り歩く。私の人生の中でも、最上位の賑やかさを誇る通勤路である。まあ、そもそも通勤路に賑やかさは必要ないのだが。


ウィーンのケルントナー通り(Kärntner Straße)


 ケルントナー通りは、路上のアーティストの多さで知られている。道幅がとても広いので、人だかりができても、さほど歩行者の邪魔にはならない。というか、古代ローマの時代から、そういうものを「含み」で都市設計されているような気配がある。

 演奏される音楽は、意外にもポピュラーな選曲が目立つ。「ムーンリヴァー」とか、「イエスタデイ」とか、「カントリーロード」とか。音楽の都ウィーンだからといって、いきなりベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲を演るわけではないのだ。

 とはいえ、さすがはウィーン。楽器の種類の豊富さでは他の都市の追随を許さない。バイオリン、ギター、トランペット、アコーディオン、ハープ、フルート、ホルン、チェロ、木琴、独唱(オペラ歌手の卵のような人がたくさんいるのだ)、ディジュリドゥみたいな民族楽器、通常のオーケストラ編成ではまず見かけない古楽器・・・。その多様性は、もはや私の乏しい語彙では追いつかないほどだ。


ウィーンのケルントナー通りの路上の音楽家
おもしろい組み合わせのトリオ。クランベリーズの曲などを演奏していた


 ここではじめて知った楽器もある。ハンドパン(Handpan)という楽器もそのひとつだ。持ち手のない中華鍋にも見えるこの楽器は、トリニダード・トバゴに起源を持ち、のちにスイスで発展したという。出自も容貌も、なかなかにユニークな楽器である。

 音の質感は、民族音楽と電子音楽のハイブリッドというのか、古代と現代の時間軸を融通無碍に行き来するような玄妙な響きである。私がハンドパンの生演奏を聴いたのは一度きりで(Reo Matsumotoという日本人奏者だった)、しかも半年も前のことなのだが、いまでも鮮明に覚えている。


ウィーンの地下鉄駅構内で演奏するチェリスト
地下鉄の駅構内でもよく見かける。この人は「もののけ姫」のテーマ曲を演奏していた


 パフォーマーの活動領域は、音楽だけに留まらない。手品や大道芸を見せる人たちもいて、これは子どもたちにもウケがいい。もちろん私の息子も大喜びだ。1ユーロ硬貨を帽子に投げ入れる「敬意の表し方」を、もうすっかり身につけている。

 実演販売みたいなことをしている人もいる。よく見かけるのは、10ユーロくらいのゴムひも付きテニスボールを売っているおじさん。いまどきそんなものを買う人なんているのか、と思うけど、見ていると結構売れている。ある日、警察官の尋問を受けていて、そこからしばらく姿を消していたが、最近また復活した。やっぱりいい商売なのか。


ウィーンのケルントナー通りのアーティスト
しゃぼん玉のパフォーマーもいた。瞬間の芸術だ


 芸術ではなく、政治の「表現者」たちもいる。

 シュテファン大聖堂の傍に野外スクリーンを張って、家畜の屠殺映像を流す人たちがいた。テラス席で豚肉のシュニッツェルを味わう人たちの目の前で、かわいい仔豚が殺される様子が淡々と映されてゆく。おそらくはその対比を意図しているのだと思うけれど、なかなかにシュールな光景ではあった。

 デモ活動の類もしばしば見かける。オーストリア国内の政治イシュー(たとえば移民問題。オーストリア政府は昨年10月に覆面禁止法という奇妙な法律を施行したが、ムスリムの女性に対する配慮の観点などから物議を醸している)はもとより、国際的な案件も少なくない。シリアの化学兵器問題、ミャンマーのロヒンギャ問題、北朝鮮とイランの核兵器問題。大国が小国に軍事介入している問題。独裁国家が反体制の指導者を不当に拉致監禁している問題。内戦で係累を失った子どもたちが無賃労働者として搾取されている問題。

 世界は混沌と悲惨に満ちている。我々の暮らしは、その上澄みのようなところで、たまたま運よく成立しているだけなのだ。


ウィーンのシュテファン大聖堂(Stephansdom)


 抗議ではない、賛成のデモもあった。「プーチンの側に立つ(Stand with Putin)」と書かれたプラカードを抱えて、ケルントナー通りを行進する白人のおじさんたち。

 そうか、おじさんたちはプーチンが好きなんだ、と私は思った。

 でもひとつ奇妙だったのは、デモの構成員が、3人しかいなかったことだ。見張りの警官の方が多いくらいで、いかにもさびしい。3人ばかりでは、麻雀の卓だって囲めない。

 それともこれは、「プーチンの側に立つ人はこんなに少ないんだ」という、逆説的なプーチン反対のデモだったのか。私はおじさんに直接訊いてみるべきだったのだろうか、でもそうしたら殴られていただろうか。

 ウィーンの路上の表現者たちの世界は、かくも奥深く魅力的なのである。
 

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